ディオニュソスはいつの間にか暗い洞窟へと入り込んでいた。
 水をくみに行ったサテュロスが、それこそ、もとから醜い顔を泣きそうな顔に醜くして大急ぎで帰
ってきたのを見て、「こいつ、そんなに心配してたのか」と思ったのも束の間、サテュロスの背後か
ら鬼の形相で追いかけてくるアルテミスの姿を見て、サテュロスが主人のために大急ぎで帰ってきた
のではなく、怒り狂ったアルテミスから大急ぎで逃げ帰ってきたのだとわかった。
 ああなったらアルテミスはどうにも手が付けられない。
 動物に変えられて一生そのままか、ともすれば八つ裂きに殺されかねない。
 一行はパニックに陥った。
 牧神のパンが起こすとされる恐慌に牧神たちがかかるというのはなんとも皮肉だが、その時の彼ら
にはそんなことを考える余裕はない。牧神達は我先に散り散りに森の奥に消えていった。
 ディオニュソスはその生来の負けん気の強さから立ち向かうつもりでしばらくそこに止まっていた
が、鬼より恐ろしい形相で迫ってくるアルテミスに、これは分が悪いなと感じたのか、彼も早々に逃
げ出した。
 森の奥へ奥へと逃げるうちに、目の前に岩が隆起してできたのだろう、黒々とした洞窟が現れた。
彼はすぐさまそこに身を隠した。
 表からでは気づかなかったが、洞窟は思ったより深く、先のほうは暗がりに没して見えなかった。
「まいたか……」
 ディオニュソスは洞窟の岩陰から外の気配をうかがっていた。追っ手の気配はしない。
 聞こえるのは鳥のさえずりと風で木々の葉がこすれる音だけだ。彼は安堵し、その場に座り込んだ。
 目がかすむ。
 いきなり暗がりに入ったせいか、目が慣れないのだ。
 だが徐々にその目も慣れ、あたりが見えるようになってくる。
 大小の岩が外の眩い光を半身に受け、ちょうど白黒のコントラストになるように無数に転がってい
る。それはまるで大小の波が地上に現れたのかと思わせた。
 が、そんなことにディオニュソスは興味がなかった。
 彼はそれらの波間の奥、かすんだ漆黒の闇に言いしれぬ興味を抱いた。
 それは自分でもなぜなのかわからない興味だった。
 追っ手の気配はない。
 彼は誘われるようにして、闇へと分け入っていった……。