ディオニュソスとその一行がシレノスの監視下から逃れて、さらに森の奥深くに分け入ってからし ばらく、ディオニュソスを取り巻く牧神達に変化が現れた。 彼らのよくとがった耳が一斉に動き、一行は足を止めた。 森の中は穏やかな陽光が木々の間から差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。 しかし彼らにそのように和やかで、楽しい雰囲気はもうない。 「こりゃあ、分が悪うございやすね」 はじめに口を開いたのはサテュロスだった。 「兄貴達か」 誰もがわかっていた。 この森から数キロ離れたところを二つの不穏な気配が壮絶な速さでこちらに近づいてきている。 それが何者なのか、神の眷属ならばすぐに気がつくであろう。 曰く、光明のアポロンと狡知のヘルメスである。 「早く退散せにゃ」 サテュロスは気弱に漏らした。 「退散? どうせ父さんにでもそそのかされたんだろう。まあ見てな、返り討ちにしてやる!」 ディオニュソスは両手の指をポキポキ鳴らすと、瞳をいたずらそうに輝かせた。 「やめておいたほうが……」 常若の神の動きが止まる。 振り返り、サテュロスに強烈な眼光を向けた。 「うわっ、はは……。お、おっと…来やしたぜ…」 牧神達はすぐに岩陰や木の陰に隠れた。 いまやディオニュソスだけがあいかわらず両手を鳴らし、森の中に一人いるだけとなった。 気配を察知したのか、小鳥のさえずりはいつの間にか止んでいた。 激しい突風が吹きすぎる。 風はディオニュソスの髪をわずかに揺らしながら、木々の葉を揺らす。木漏れ陽が電光のように差 し込んできた。 陽光を率いるようにアポロンが光の中から降り立った。それに続くようにヘルメスもゆっくりと降 り立つ。 「久しぶりだな、兄貴達」 現れるなり、アポロンは射殺すようにディオニュソスを睨みつけた。 「このガキが!」 いきり立って一歩踏み出す。 「やる? こっちはかまわないぜ」 二神はすでに戦闘態勢へと入ろうとしていた。 「まあまあ、ここはどちらも矛を収めて。ご兄弟で争われても何にもなりませんよ。それより話し合 いで事を収めるのが得策というもの」 ヘルメスの言葉でアポロンはなんとか平静を取り戻したようだった。が、ディオニュソスのほうは まだ兄から視線をそらさず、目を見開いたまま動こうとはしない。 ディオニュソスは嘲笑して言った。 「怖じ気づいたのかよ」 その言葉でアポロンのスイッチが完全に入ってしまったようだった。 ヘルメスを振り払い、再び弟に挑みかからんとする。 「なんだと、コラ!?] 「なんだよ!?」 ヘルメスの仲裁の言葉が喉まで出かかる。しかし彼はその言葉を飲み込んでしまった。なぜなら、 彼の目の前にいる強烈な個性を持つ神々は、すでに誰にも止められない状態へと陥ってしまっていた のだ。 彼は眉間にしわを寄せてうなった。 その後、平和な森に煙が立ち上り始めたことはいうまでもない。 そして 激しい戦いは言うに及ばず。 ディオニュソスはアポロンの一撃を受け、倒れた。それを待ってましたとばかりに隠れていた牧神 達がわらわらと飛び出し、その多さに呆然としているアポロンとヘルメスを尻目に、気絶しているデ ィオニュソスを担ぎ上げると、素速く消え去った。 「降ろせ! まだやれる!」 目が覚めたディオニュソスに叩かれ、蹴られしても牧神達は何とか堪え忍び、ようやく追っ手をま いたときには、彼らの頭はこぶだらけとなって、さらに森の奥深くへと入り込んでいた。 「なんで助けたんだ!? あのままやってれば勝てた!」 襟首をつかまれ、身勝手な言葉をはき散らす主人に対して、サテュロスはのど元を押さえつけられ ているせいか反論らしい反論はしばらく言えなかったが、なんとか声を絞り出す。 「兄様! 聞いてくんせい! あっしは兄様の舎弟として自負を持っておりやす。だから、兄様の身 に万一のことがあれば命に代えてでもお助けする覚悟がありやす。それは他の奴らも同じだと思いや す。どうか、このとおりです。許して……」 ディオニュソスはサテュロスの怯えた、しかし心のこもった眼差しを見て、ようやく渋々手を放した。 彼はふてくされて地べたに座り、解放されたサテュロスのほうも地べたに崩れ落ちた。 息も絶え絶えのサテュロスであったが、そこは敬愛するディオニュソスのため。すぐに立ち上がっ て、ともに疲れているディオニュソスのご機嫌が良くなるようにつとめる。 「兄様、お疲れでのどが渇いたことでやんしょ。どっかで水をくんできますわ」 それにディオニュソスは背中を見せて無言で応えた。 サテュロスは嬉々として走り出した。 岩を飛び越え、木々の間をぬい、慣れた調子で水の音や匂いがしないか周囲に注意を働かせる。 はじめは蹄のついた後ろ足だけでちょこちょこ駆けていたが、転びそうになると、そのうち手をつ いて四つん這いになって駆けだした。半人といえども、こちらのほうが走りやすかったのか、一 気に速度を上げ始める。 彼が水の匂いをかぎつけたのはその直後だった。彼は匂いのする方へ走り出した。それと同時に耳 をそばだてる。確かに水の音がする。彼は足を速めた。 彼は一直線にある方向に向かっていた。水の音はどうやら前方に見える茂みの奥から聞こえてくる ようだった。彼は迷うことなく茂みに頭を突っ込んだ。茂みをかきわけかきわけ進んでいく。彼の頭 にはすでに主人のもとへ届ける水のことしか頭になかった。 そうして、彼は茂みを抜け、やっとのことで満々と水をたたえた沼にたどり着いた。水面はこの世 のものとも思えないほど、燦々と降り注ぐ日の光を受けてきらきら輝いていた。水中は青く透き通っ ていて、水底の藻や小魚が遠くからでもはっきり見ることができる。 彼は茂みから頭だけ出してその光景を見とれていたが、 目的を思い出し、すぐに水をくみに出よう とした。 しかしその時、鼻先に白い薄衣がどこからともなく引っかかったので、彼のその行動もさえぎられ てしまう。 彼はその衣を目で追う。 そして彼は自分の目の前に美しい二つの瞳がこちらを見ていることに気づいた。 美しく妖艶ささえもうかがえる端整な顔立ちに映えるように位置する二つの瞳。 白い衣は、流線型を描く美しい彼女の肢体を覆い隠すにはあまりにも薄かった。 「え?」 「え?」 二人は顔を見合わす。 直後、水面を振るわすような悲鳴があたりに響き渡った。 彼女はニンフ。ここは部外者の侵入を許さない、処女神アルテミスの禁断の森であった。 |