色とりどりの花々が春の温かい風になびいて心地よく薫っていた。
 赤、黄、白の花々が風の赴くままに泳ぎ、花びらを散らして、風にその色を飛ばしている。
 美しい春。美しい野。
 清らかな地には無垢なる魂が宿る。この野にもまた、純白の衣をまとった一人の女性がひざまずき
花を摘んでいた。女性、と言っても、その容姿からはまだ少女と言った方が適切かもしれない。頭に
頂いた花冠は少女のそれであり、柔らかく輪郭線を描く目鼻立ち、透きとおった黒髪は、花々にも負
けない純粋な美しさがあった。
 風で花弁が再び舞い上がり、彼女を包み込む。
 その香に誘われて、彼女は手をとめた。
 両腕の間にある花輪を見る。できあがったのだ。
「もういいのか?」
 背後の声に、彼女は彼方を見つめるようにして立ち上がった。
 黒い影が虚空から這い出るように空中に滲んでいた。
 少女は振り返る。
 そこには一人の黒衣の男が立っていた。
 すらっと伸びた腕は衣の端から青白い肌を見せ、その顔も、頭の銀色に光る髪と比べても青白い。
決して笑ったことがないような口許からは生気のなさが感じられ、瞳の輝きも鈍く、悲しみと愁いを
たたえていた。
「もう、大丈夫です」
「そうか……」
 男は少女を見つめた  。
 少女は男の目を見つめた  。
 言葉などいらない。
 男は静かに歩み寄ると少女を優しくその腕に抱いた。
 少女は驚きに男の顔を見つめた。
 男の表情は昏く無表情のままだった。
 二人は見つめ合った。
 どちらもその場を動こうとはしなかった。まるで視線をそらせば永久に会うことができないかのよ
うに。





 一陣の風が吹き過ぎる。
 生暖かく湿気を帯びた風。もうもうと吹きつける風は渦を巻いて少女の髪をなびかせ、男の肌を暖
める。二人はお互いの元を離れ、風の吹く方向を見た。
 風の中心、ちょうど風が交錯する中から人の形が現れる。それは黄檗の衣をまとった、一人の女だ
った。
「私の(コレー)、会いたかったわ」
「……お母様!」
 母と娘は久しぶりの再会を愛おしむように抱擁する。
 頬を寄せ合う姿は、まさに親愛で満ちていた。
 そう、これは春。
 そして私は冬。
 男はその様子を後ろめたい気持ちで見つめていた。
 自分は強くあらねばならぬのに……。
 男はいつも思うことをまた反芻する。
 彼女の母親は西風に付き添われ、娘を取り戻しにきた。そして、私はそれを止める手だてはない。
 いや、むしろ進んで明け渡さなければならない。
 彼女を。
 男の目には喜びで顔をいっぱいにする少女の姿が映っていた。
「娘を今まで預かってくれてありがとう、ハデス」
 だから声がかかるまで、彼は母親が歩み寄ってきたのに気づかなかった。
「ああ……」
 そう、この顔だ。
 母親が若干の嫌味を言外に含ませていたのを気づかないはずはない。だが、母親がいつも自分に向
けてくるこうした言葉や態度を、男はしかたない、と考えていた。
 娘を奪ったのはこの私なのだ。
 憎みは受けて当然なのだ。
 しかし、それでも、ハデスは欲していた。
 暗く閉ざされた冥界には嫉妬や憎悪、死んだものたちは山ほどある。しかし自分が真に感じえた、
なにものかは決してなかった。
 冥王になった運命とあきらめればそれまでかもしれない。しかし、ハデスは心の負に彩られた世界
に心底落胆していた。
 心の溝が永久に埋めることのできない深淵に思えた。
 地獄の底より深い深淵に……。

 不死の神。

 永遠の生を持つもの。

 だが、充足のない、苦悩に苛まれる生に、何の価値がある?
 人においては死を願うこともできよう。
 だが私には憩うこともゆるされぬ。
 それは冥界ゆえに、冥王ゆえに死の中にあるからだ。
 いや、生死など我々にはもとより意味のないことだ。
 私には、そう、あのモイライが定めたことが厭うことに思えてならない。
 心を揺さぶって放さない、あの運命の糸……。



 母子が去る姿をハデスは遠い目で見送っていた。
 また、冬まで会えないのか。
 これほど彼の胸を突く思いはなかった。
 また寂しくなる……。
 ハデスは冷気を感じていた。
 足下の野は、今や生気を失い、凍り付いたように固まっている。ハデスは冥界の門へ足を進めた。
 しかし、彼は下りゆく足をふと止めた。

 遠くで呼ぶ声を聞いた。

 今一度振り返ってみると、少女が心配そうな母親の元を離れ、急ぎ足でこちらにやってくるのが見えた。
「これ、渡すの忘れて……」
 少女の手には花輪が握られていた。
「そうか……」
 少女はまた母親の元へと引き返していく。
 彼は、目を閉じ、再び冥界の門へ足を進めた。
 野にはすでに冷気はなく、ただ、奧に口を開けている洞穴に消えゆくハデスがすべての『冬』を引き連れていた。

「さよーならー!」

 少女の声が、遠く、風にまぎれるようにいつまで響いていた。