主神の目に映る白い王は、悪しき戦況の中、苦境に立たされていた。
駒を動かす手が止まる。
全知の主神をして釘付けにさせる。
となれば、向かう相手はそれに匹敵する者であるに違いない。
黒の王を見遣る瞳。
それは女神のものだった。
前身を包む純白の丈の長い衣。その袖口からは両腕からのびたしなやかな指先が見え隠れしている。
しかし、それとは対照的にその両腕で抱かれていたのは強靱な青銅の槍であった。足下に置かれた青
銅の兜ともども、女神らしからぬ異様な風貌である。
だが問いにはその顔を見ればすぐに答えが出る。
端正で筋の通った美しい、しかし冷然とした顔には、決然とした灰色の瞳が光っていた。
「さあ、父上の番ですよ」
うなり声を上げるばかりで、主神は答えようとしない。
一瞬、女神のまじめな顔に笑みがこぼれたが、すぐにもとに戻る。
「……降参ですか?」
「いや! まだだ!」
だが、明らかに盤上に勝機はなかった。いつまでも駒に手を伸ばそうとしない父神に、女神は目を
つぶって気長に待つことにした。
そう、急ぐことでもない。
天上の雲が流れ行く気配を、女神は気持ちよさそうに感じていた。
女神はオリンポスが好きだった。
家族がいる。
守るべきものがある。
叡智と守護のアテナは、満足げに笑っているように見えた。
と、その時。気づくより早く、金糸のような甲高い声が雲の合間を縫って響いてきた。
「久しいのぉ、勝利の女神か」
ゼウスが頭を上げてつぶやく。
「ええ、どうやら良い知らせを持ってきたようです」
白雲の立ち上る家々の間から見えてきたのは、黄金の羽の生えた小さな女神だった。
その大きさといえば、肩に乗るほどだったが、それでも羽を広げた姿はかなり大きく見えた。縮れ
た金髪の短い巻き毛が血色のいいその顔を愛くるしく飾り、目をキョロキョロ動かし、小さな口はし
ゃべるために開いたり閉じたりを繰り返していた。
「まあ、これはこれはこれは。主神様もいらっしゃったのですかぁぁ。それはそれは」
「どうした、ニケ。そんなに慌てて」
「はいィ。あの、どうも、すみません。えーと、わたくしがやって参りましたのは、実を申せばです
ねぇ つまりはですねぇ、あああののの 」
「これこれ、そう急くな」
支離滅裂にもほどがある。
そう、ゼウスに思わせたほど、アラビア語のたぐいか、あるいはおかしなネコのように、ニケはビ
ャービャー言葉を吐き出しはじめた。それはまったく人間には理解不能の言葉だった。ニケはときど
き興奮すると恐ろしい速さで人知のおよばないこうした癖が出るのだが、どうやら二神には通じるら
しく、機械信号のような言葉を理解していた。
アテナの神域の都、アテナイに新しい王子が誕生したとか、都に侵攻してきたペルシャ軍をうち負
かして退却させたとか、守り鳥のフクロウがアテナイに戻ってきたとか、ニケの彫像が新しく建てら
れたとか(もちろんアテナの彫像も)、どうやらそんなことを言っていたらしい。
アテナは頷くと、
「では、祝辞を述べねばならないな」
表情を少し和らげて言った。
「近日中にアテナイへお越しくださいィ。わたしの祝福が都に満ちあふれているのをお見せしたく存
じます」
ゼウスは女神達の和気藹々とした様子を確認すると、それよりも現在重要な盤面に目を転じた。
と、そこで彼の神はその全知により何かをひらめいたようだった。
ゼウスは女神達、特にニケを神妙に見て、
「ニケよ、ちと、こちらへ」
「はい、何でございましょうか?」
ニケが耳元でなにやら囁やかれたかと思うと、その表情が一変するのがわかった。
小さな女神はゼウスのそばを離れ 自分ではそうしようとは思っていないだろうが 渋面ふてぶ
てしく嫌味そうに笑った。
しかし慧眼の利くゼウス。いち早くそれをみつけると、ニケを威厳あるすさまじい眼光でキッと睨む。
二ケはそれに気圧されるようにして「どうも失礼しましたぁ」と早々に別れを告げ、その場から逃
げるように去っていった。
「何を話しておられたのですか?」
「いや、なに……。では、続きをするとしようか」
アテナは淡々と盤面に視線を戻す父神の顔を不思議そうに眺めていた。
『何を』はその時、なんとなくわかったような気がした。
しばらくして「そうれ、詰みじゃ」と、ゼウスが言った。
どういうわけか白い駒のひとつが黒い王を捕まえていた。反則などはしていない、正当な手順で運
ばれたものであることは明らかであり(普通ではあり得ないはずだが)、ゼウスは勝っていた。
自慢げに身を反らすゼウスは悠々と天界に満ちた清純な空気を吸った。その勢いで身に収めた慶雲
が少し出てしまう。
アテナはその姿を見ると納得した。そしてにっこりと笑った。
「………では、父上、もうそろそろ戻りましょうか」
「うむ。そうするか」
二神は異なった笑いをまき散らしながら消えていった。
そこからしばらく離れた草むら。
勝利の女神・ニケはその中で息を殺し、様子をうかがっていた。
「よかった……」
小柄な女神。しかし安堵のため息はとても重いものだった。
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