「あの娘御ら、一人だけでもあっしにいただけませんかね?」
 毛むくじゃらのサテュロスは、いつものようにニタッと笑う。
「まあ待ってろ。そのうちお前に全部やっちまうからよ」
 サテュロスの横に立つ青年が答える。
「本当け? ううう……ありがとうごぜいやす。兄様のご恩は一生忘れやせん!」
 うれしくて蹄で地面をコツコツやるサテュロスを、青年は大げさに笑った。 
「一生も何もねえだろが。お前でも一応、不死の神なんだからよ」
「へへ、そうでやした」
 ひん曲がった山羊の角を振り振りしてサテュロスはうなずいた。
 彼らが立つ崖の上からは、緑と木々に覆われたなだらかな丘が縦横に広がっている。木々はみずみ
ずしい果実を実らせ、野には新芽の草が鮮やかな緑色を放っていた。何人にも汚されていない、自然
そのままでありながら、不思議な人工美をもあわせもった神秘の野であった。
 しかしヘルメスの隠されし野は、その時、神性の落日を迎えようとしていた。
 純白の巫女達の存在である。
 乱れ踊りまわり、ともすれば奇声を発し、獣さながらに這いつくばる。あるいは木にまとわりつき
ながら、なにか儀式さえ思わせるその姿、その風景。これはあまりにも陰惨でありながら、燃え立つ
緑の舞台によって、耽美的に照り映えているのだった。
 それを高見の青年ははうれしそうに見ていた。
 引き締まった両腕には葡萄の蔓が巻き付き、それが腰まで肉体を引き立てるように取り巻いている。
頭上にはこれも葡萄の蔓で作られた冠がうやうやしくのっていた。青い瞳は激しく輝き、口許はいた
ずらっぽく微笑んでいた。
 彼はその名をディオニュソスと言った。
 偉大なゼウスの子であるこの神は、その生来の乱雑さと放浪癖によってオリンポス山に迎えられる
ことなく、今日は東、明日は西といったように自由気ままに暮らしていた。
 放浪神の端くれ。しかし強力な魔力によって人間から崇拝を受ける、そんな神だった。
 巫女達を見るその表情は子供のような笑いが浮かぶばかりであった。
 まるで玩具を弄ぶようなもの。
 だからというか、背後に忍び寄って影に彼は気づかなかった。
「悪戯がすぎますぞ!」
 乳母が子供をいさめるような声に、不意をつかれたディオニュソスはビクッと肩をすくめた。
 見ると、腰から下がまるで馬のように光沢のある毛で覆われ、蹄を持ち、白髪の頭の上からは馬の
耳がつきだし、その上、ふさふさのしっぽが出ている老人が立っていた。
 奇怪な老人は、どうやら急いで走ってきたらしく、息を切らしていて今にも倒れそうだった。
「まったく、坊っちゃまにはほとほと疲れますわい」
「よくあそこから出られたな、シレノスのじいさん」
「あのようなたわいない罠など」
 少しばかり息を整えた老人は、崖につきだした岩によっこらしょっと座った。そしていつものよう
に説教が始まるのだった。
「あなた様は歓喜と陶酔を司るお方。それは何者にもなくてはなりません。しかし、あのように罪の
ない人間を弄んで何の得がありましょう? 父神様のおっしゃられたことがおわかりになりませんのか?」 
 毎度のことにディオニュソスも飽き飽きしている。
 しかし父のことを引き合いに出されるのは勘に障る。
「父さんが俺のする事にちょっかいを出してるのは母さんの償いのためだろ? 俺にとやかく言う義
理はないね」
「父神様を悪く言うと許しませんぞ!」
 激昂して言ったものの、老身には応えるらしく、シレノスは疲れ切った様子で岩にへたり込んでし
まった。
「父神様にあなた様の面倒を見るように仰せつかったのは、あなた様がまだ生まれて間もない頃でし
た。牧神のはしくれであるこのわたしに有り余る大役、父神様にはどうお礼を申し上げればよいかわ
かりません。あなた様ももっと父神様のように尊厳を持って温情豊かな天神様になられませんと!」
 シレノスの一方的な説教が再開されると、ディオニュソスは心ここにあらずといった様子で、無関
心に欠伸をかいた。
 話が終わるか終わらないかのうちに、片手を突き出して独特のまじないのようなものをかける。
 面倒くさそうに巻き毛を伸ばすようにして頭をかいた。
「行くぞ、サテュロス」
 逃れるように去ってゆくディオニュソスに遅れまいと、サテュロスは不器用につまづきながら後を
追う。
「わ! ちょ、ちょっと待ってくだせえよ!」
 従者はやっと追いつくと、うしろを振り返りながら、喉元でうなり声のような下品な笑い声を立て
ながら、そのまま去っていった。
「まったく、あなた様はわたしの手に余るお方。もう少し誠実になられれば………」
 シレノスは牧神らしく、自分の座っていた岩に話しかけているのだった。