白雲の切れ間、天の黄金宮を進めば、巨大な大広間が見えてくる。
 縦横にテーブルを並べ、そこでは今、宴の真っ最中であった。
 神酒をおおいに飲み、歌う神々。
 アポロンの音頭で音楽を奏でるムーサイ、舞うカリステ。
 会議が終われば、宴の時間。
 神々がいつも楽しみにする大宴会は、今まさに絶頂に達しようとしていた。 


   しかし、その最中にあって浮かない顔をする一人の神がいた。
 隅にうずくまり、宴の様子をじっと見つめているその神は……。
「あーら、ディオニュソスちゃんじゃない! どうしたの、珍しいじゃない、こんなところに来るな
んて」
 近寄ってきたのは、普段なら麗しの表情の愛の女神・アフロディテであった。
 しかし今はどうやら酒が回っているらしく、言葉遣いもなれなれしく、その妖艶さは目も当てられ
ないほどであった。
「そうか! 思い出したわ。アポロンくんの巫女を盗った件で怒られてたんでしょ!」
「ああ……」
「うーん、でも偉いわ。あのアポロンくんを出し抜くんだもん。お姉さん誉めてあげる」
 酒臭い息がディオニュソスの顔にかかる。
「ああ……ありがと……」
「あははは、ありがとだって。このこのぉ!」
 力のない手がぺしぺしとディオニュソスの肩に当たる。
 と、突然赤い顔を誘惑するような表情に変えて、アフロディテはディオニュソスの顔に自分の顔を
近づけた。
「……でも、今度はお姉さんもさらってほしいな」
「え……?」
 ディオニュソスが呆気にとられているところへ、アフロディテの背後から声が響く。
「こらこら、ちょっかい出したらいかんぞ!」
 アフロディテの夫、神工ヘパイストスが足を引きずりながらやってきた。
「あーら、あなた。もうっ、本当に寂しがりやなんだから。盗られるとでも思ったの?」
「いいから、戻りなさい」
「ん、もうっ! ………じゃ、またねディオニュソスちゃん」
「ほれほれ、戻った戻った……。すまんね、うちのは八方美人で。いろいろと厄介でね」
「大変そうだな」
「今日は宴だから無礼講でいいんだが、少し目を離すとどこかに行ってしまう。まあ、あれでも良い
妻なんだが」
「はあ……」
 遠くの方で、今度は別の神にからみはじめた妻に気付くと、
「それではまた!」
 ヘパイストスがまたアフロディテを追っていったのを、ディオニュソスはじっと見つめていた。
 そして脇に置いてあった杯から口を潤すと、息を吐く。
 宴はなおも盛り上がる。
 彼は膝の間に顔を埋めた。
「どうした、ディオニュソス。何をしている?」
 近寄ってきたのはポセイドンだった。
 大柄な体格、長くのばした白いあごひげ、もさもさの髪の毛を押しつぶすように頭に被った兜。強
面の顔には、しかし優しい瞳が輝いている。その姿は荒くれどもを従える海賊の頭のようであった。
「あまり浮かないようだな?」
 ポセイドンがよく通る低い声で聞く。
「なんだ、ゼウスに怒られてしょげてるのか? お前らしくもない」
「いや、そんなんじゃないんだ……」
「ほう。では何だ?」
 ディオニュソスは無言で宴を見つめている。
 ポセイドンはその様子を見ると、口をニヤッとさせて、ディオニュソスの隣に座った。
 宴はあいかわらず盛り上がっている。
 その様子を二人は静かに眺めていた。
「……ゼウスのアホがしょうもないことをしてくれる」
 聞き逃しそうな自然な感じでポセイドンが呟く。
「まったく馬鹿なことだ! 笑って暮らしゃあ、それで十分じゃねえか」
 ディオニュソスは黙ってうつむく。
「まあいい。…………お前もあれぐらいですんでよかったじゃないか。アポロンの巫女も、ヘルメス
の神域も元に戻すことで決着したし、お前んとこのサテュロスがアルテミスに取られるだけですんだ。
情状酌量で罪が軽くなったんだ。よかったな」
「サテュロスはニンフに変えられちまった」
「ぐふふ。そうか、じゃあ綺麗な姉ちゃん達の中に一人だけ変な顔の女装した奴が紛れ込んでるって
ことか! ガハハハ、そりゃ傑作だ!」
 豪快な笑いをポセイドンがまき散らす。                      
 それがあまりに見事な笑いっぷりだったので、ディオニュソスは思わず顔を上げた。
「でも、ゼウスが全部仕組んでたとは、さすがの策士だな」
「え?」
「なんだ、知らなかったのか? あの野郎、ハデスが機嫌悪くて死者を冥界に送れないってんで、そ
れとなくお前達をそっちへ導いたんだよ。聞いてないのか?」


 ハデスの悩みは一筋縄ではいかない。
 慰めの使者を送ったところで相手にしようとしなかっただろう。
 また、ゼウスの子神達は好きこのんで冥界などへ行こうとはしない。ゆえにこちらを送ろうとして
も無駄だ。
 そこでゼウスは一計を案じ、自分の子ども達をディオニュソス捕獲へと送り出して、冥界へ通じる
洞窟へディオニュソスを誘い入れたのであるが……。
 さて。神のすることゆえ、その全貌は明らかではない。アポロンの巫女をディオニュソスがマイナ
スにしたことが計画の始まりだったのか、それとも冥界への洞窟に近い森にディオニュソス一行が入
り込んだのが始まりだったのか、あるいは洞窟の奧にディオニュソスが誘われたのが始まりだったの
か、それともすべては運にまかされていたのか。……ゼウス本人だけが知るところである。
 そして、これも考えのうちだったのか、アポロンとヘルメスの仲直りもいつの間にか成功していた
のであった。
 まあ、そんな回りくどい策を立てなくとも、冥界に出向いた子神達は初めからハデスが困っている
のなら馳せ参じるつもりでいたのだが、ゼウスの性分か、策を立てられずにはいられなかったのだろう。
 そのことにディオニュソスはおもわず苦笑した。
「ガハハハハ。みんな馬鹿なんだ。ゼウスの野郎も、お前もな」
 豪快にポセイドンが笑う。
 踊る神々に時折野次を飛ばしながらポセイドンは笑い続ける。
 ディオニュソスは宴を見つめる。
 その顔には笑みがあった。
 ポセイドンはそれを見る。
 そしてニタッと笑うと、
「お前なあ、ガハハハハハ……お、お前…お前…恋をしろ!」
 ディオニュソスは一瞬、おかしな顔になる。
「お前、恋をしろ! したことないんだろ? だったらおおいに恋をしろ! それでみんな忘れちま
うよ!」
 宴の歓声はいよいよ大きくなる。
「いい女でも見つけたらもやもやなんかふっ飛んじまうって! 楽しく遊んで、激しく恋して。そう
すりゃ、万事大丈夫だ! ほうれ、行って来い! おおいに遊べ! そうすりゃ、悩んでる暇なんか
ねえんだ!」
 ポセイドンの太い腕がディオニュソスを押し出す。
 ディオニュソスは誘われるがままに宴の輪の中に入っていった。

 そうか  

 そうなのか  

 ディオニュソスは神々の輪の中で、いつしか何もかも吹っ切れたように笑っていた。
「  ゼウス、一つ借りだぞ」
 ポセイドンは宴を去りながら、心の底から笑った。
 ディオニュソスがナクソス島においてアリアドネと出会うのは、その後のことである。
「ふいぃ、しっかし、神酒はいつ飲んでもウメぇな。あ、ちょっとそこの女中さん。この料理包んで
くれる? そう、そことそことそこの……」