ディオニュソスは思った。
母のことを。
父のことを。
そして兄弟のことを。
しかし、答えは出ない。
彼には心のよりどころがない。
本当の心のよりどころが。
「それで……ディオニュソス様の方は……?」
自分の名を呼ばれたためなのか、彼の思考はそこで中断される。
アルテミスをなんとかディオニュソスから引き剥がすことに成功したアポロンとヘルメスは、とり
あえずミノスにアルテミスを任せて、息を荒くしながら、ようやくアルテミスが落ち着きを取り戻し
ていることに安堵していた。
「ハデス様。我々がやってきたこと、おわかりかと思いますが……」
ヘルメスが息を切らせながら言う。
ハデスは今までの話に動揺を受けながらも、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「……ああ、それは知っている。ディオニュソスのことであろう? ミノスがお前達を引き留めるた
めに冥府の口まで向かったようだが……どうやら、失敗したようだな」
すぐにミノスが口を出す。
「もっ、申し訳ありません。総動員で対処しましたものの、兵達は倒され、ケルベロスも討ち取られ
まして、ただ一人残った私も捕らえられ、ここまで案内させられたという、まったくもって不名誉な
ことでして……」
アルテミスとケルベロスの戦いはあっけなく終わっていた。
さすがのアルテミスもケルベロスの力には最初のころ押されていたが、ケルベロスの三首が一斉に
彼女に噛みつこうとした瞬間、彼女は空高く跳躍し、彼女の姿を追って顔を上げたケルベロスの三首
めがけて、彼女は目潰しを敢行する。視覚を奪われたケルベロスは混乱し、三つの首も統制が取れな
い。そこにすかさずアルテミスのゴールデンアッパーカットが決まり、巨犬は見事に宙を舞い、あっ
けなくノックダウンされたのであった。
かわってミノスの方はというと、アポロン、ヘルメス、アテナを追っていくうちに三人にばったり
出会い、引き留めようと必死になっているところへ、ケルベロスとの戦いに勝利し、後ろから猛烈に
追い上げてきたアルテミスによって、後頭部に跳び蹴りを食らい、胸ぐらを掴まれブンブン振り回さ
れたあげく、混乱のうちにハデスとディオニュソスの会談場まで案内される羽目になったのである。
これはミノスにとって死活問題であった。
冥府の裁判官として仕事に誇りを持っていた彼にとって、『ディオニュソスの追っ手をくい止める』
という仕事は絶対に果たさなければいけない仕事であった。
しかしその仕事も度重なる掟破りの猛攻により、果たすことができず、結果、ミノスは名誉を失墜
することになったのであった。
そんな一生にあるかないかの災難の中(といっても彼はもう死んでいるのだが)、それでも彼は諦
めなかった。
『仕事は最後まできっちり果たす』
仕事が失敗したからといって、投げ出したりはしない。彼はディオニュソスの追っ手達に従いなが
ら、微力ながら彼らを監視していたのである。
「申し訳ありません……」
何度も何度もミノスはハデスに向かって頭を下げる。
ハデスはまだ頭に残るわだかまりを取り去るかのように咳払いをする。
「もうよい、ミノス。お前は役目を果たした」
ミノスはそれでも食い下がるように顔を上げたが、ハデスが下がるように手を振ったので渋々部屋
から出ていった。
「ミノスは悩み多き人生を送ったゆえ、それを振り切るかのように冥府の仕事に執着しておる。客人
を歓迎するにしては無礼であったな。私から謝る」
「いえいえ、それにはおよびませんよ。かえって助かったぐらいですから……」
ヘルメスは横目でまだ暴れたりない様子のアルテミスを見た。
「それにしてもよかったですね。お悩みが解決できまして」
「皆に迷惑をかけてしまった……」
「とんでもない。我々は家族ではありませんか。家族の幸せを願わぬ者がどこにいます?」
ヘルメスはさわやかに笑って言った。
ハデスは平静を装いながらも、心の奥で何かが揺れ動くのを感じていた。
それに賛同するようにアポロンも進み出る。
「ここに来るのは好きじゃないが、ハデス叔父の頼みならいつでも来るぜ」
ハデスは大きく息を吐いた。
すべてが抜けていく。
苦悩、わだかまり、誤解……
その顔をすでに威厳ある冥王へと変わっていた。
「我が甥たち、姪たちよ。私のことはもういい。それよりもそこにいるディオニュソスの方を見てく
れぬか」
全員の眼がディオニュソスに注がれる。
ハデスはディオニュソスから聞いたことを話し始める。母のこと。ゼウスとの関係。そこから彼が
逃げ出したかったこと。すべて。
一瞬の沈黙が流れる。
と、アルテミスがディオニュソスのもとにまた詰め寄ってきた。
「あんた、そんなの何の解決にもならないじゃない!」
アルテミスはディオニュソスの胸ぐらをつかむ。
しかしその時の彼女は以前の鬼の表情ではなかった。
アルテミスはもともとディオニュソスのことが嫌いというわけではない。
むしろ好感を持っていた。
あまり会うことはなかったが、オリンポスの宴の席などで見かけるディオニュソスの若々しく自由
奔放な振る舞いは、どこか自分とつながるところがあると感じていた。
しかしその思いとは裏腹に、久しぶりに対面した彼は卑屈な逃亡者であった。
もしかしたら彼女がディオニュソスの行為を猛烈に怒った裏には、少なからず期待していた彼に裏
切られたという思いもあったのかもしれない。
怒りに拍車をかけるようにその思いがあふれ出す。
「馬鹿よ、あんた。お父さんが気にくわないなら、そう言ってやればよかったじゃない!」
その言葉にディオニュソスは答えることができない。
その態度にアルテミスのイライラが募る。
彼女はディオニュソスの胸ぐらをつかんで叫ぶように言う。
「この野郎! 黙ってんじゃねえぞ! いいか、 お前の母親は死んだんだ。そんなことみみっちくう
じうじ悩んでんじゃねえよ! お前はお前らしく生きてけば、それでいいじゃねえかよ!!」
涙を浮かべながらアルテミスが顔を近づける。しかしそれは彼の悩みに同情してではない。彼の悩
みを作った彼の心に対してであった。
その瞳を見た瞬間、ディオニュソスの心に火が灯った。
俺のために泣いてくれるのか。
こんな俺のために悲しんでくれるのか。
俺のために。
泣きじゃくるアルテミスを見て、ディオニュソスは思った。この女を笑わせたい。みんなを笑わせ
たい。そして自分も心の底から笑いたい。それは胸の底からわき上がってきた強い、強い願いだった。
「……やってみるか」
アルテミスの眼から涙がこぼれる。
「ディオニュソス!」
アルテミスは思わずディオニュソスに抱きついた。
少し緊張したディオニュソスだったが、ゆっくりとアルテミスの背中に手を回していた。
しかし、その二人にアポロンが声をかける。
「言っとくがな、オレの妹はいろいろと問題ある立場だからな」
その言葉で二人はどちらからともなくサッと離れた。
「これで、すべては解決したわけですね。やれやれ……」
ヘルメスが言う。
「いえ、まだ未処理の問題が」
アテナが口を挟む。
「ディオニュソス様の起こしたことに対する償いを頂きませんと」
「おお、そうでした、そうでした」
ヘルメスがディオニュソスの方へ歩み寄る。
しかしいきなり立ち止まって、
「しかし、下手人を捕らえたのはいいものの、裁定は主神様にお願いしませんと」
「そのことならばご安心下さい。……ニケがなぜこの場にいないかおわかりか?」
その言葉にヘルメスが納得する。
そう。
ニケが冥界までその主人とともにやって来なかったのは、本人が「私怖いの苦手なんです」という
お化け屋敷に入るのを怖がるような彼女の気持ちのためでもあったが、アテナに申しつけられてそこ
までの経過、ディオニュソスを追ってきた四人が冥界へ行ったことをゼウスに伝言するためであった。
「後日、父上自らが裁定をお下しなさることでしょう」
「……ハハハ、それは手回しのいいことで」
ヘルメスはほとほとアテナにはかなわないなぁ、と痛感するのであった。
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