ペルセポネは満開の花の中で花冠を頭に乗せ、スミレの花を摘んでいた。
そこに近づく姿があった。
清楚な物腰と黄檗色のフードを被ったその姿は、どこかの尼僧を思わせる。その顔立ちとフードの
間から見える黒髪は、ペルセポネとの血のつながりを思わせた。
「コレー」
「お母様」
母子は仲良く花の中へ座る。彼女達は満開の花の中、その中に溶け込むようにして楽しげに語らう。
「いつ見てもここはきれいね」
ペルセポネはもう一つ作ったのか、花冠を掲げながら言った。
その様子を母は優しげに見つめる。
しかしそういうときに限ってあのことが頭をよぎる。
彼女は、知らず暗くこもった声でつぶやいていた。
「だったら、いつでも帰ってきていいのよ」
母の言葉に一瞬驚いて、ペルセポネは表情を曇らせた。
「ハデス様がいるからだめよ……」
今度は母の方が表情を曇らせる番であった。
「あの人のことなんか忘れて帰ってくればいいでしょう?」
「でも、ハデス様と一緒にいることは決まってしまったことだし……」
「そんなことはお父様に頼めばなんとかなります」
「いやよ……」
「なぜ? なぜ、いやなの? 無理矢理あんな暗いところへ連れて行かれて、あの人と結婚させられ
て……。いやだったのでしょう? あの人が嫌いなのでしょう?」
糾弾だ。
だが問いつめずにはいられない。
娘がそれで帰ってくるなら、それで自分の気が休まるならいいと思った。
ペルセポネは少しの間それに答えられなかった。
しかし訥々とだが、その小さな口から言葉があふれ出してくる。
「違う……違うわ……私、あの人を」
声が震える。
「……私……私…………お母様、私あの人を」
だが、その純粋な心には一点の曇りもないのだった。
「……ハデス様を…………愛しているの」
それは突然の告白。
母は驚きを隠せなかった。
ペルセポネの横顔は明るく、何も迷いのないかのように瞳は澄みきっていた。
いったい、いつから娘はこんな大人の顔をするようになったの。
いったい、いつから娘はこんなに幸せそうな顔をするようになったの。
母・デメテルはいつの間にか成長していた娘に驚くばかりであった。
「ハデス様にさらわれたときはとても怖くて、お家へ帰りたかった。すごく泣いたわ。とってもとっ
ても。……でも泣きながら気づいたの。……こっちを見るハデス様の眼がとても悲しそうだった。目
に涙を浮かべながら、それでも涙を押し殺している……それが本当に悲しそうなんで、いつの間に涙
が止まっちゃった。なんだかハデス様の方が可哀相になって、それで慰めてあげたの。そうしたらハ
デス様、笑ってくれた。私、その時少し安心できたの。ハデス様はそんなに悪い人じゃない、ただ寂
しかっただけなんだって……」
ペルセポネは手に持った花冠をじっと見つめている。
彼女はその中にハデスの顔を見ていた。
「でも、あの人はあなたを連れ去ったのよ」
「わかってる。でも、ハデス様は一生懸命そのことを謝ってくれた。私がもういいって言うまで、あ
の方はそのことを悔やんでいるようだった。『私は大変なことをしてしまった。君の幸せを壊してし
まった』って言って、私の目の前で泣いてた。息を殺しながら泣いてた。初め見たとき、ハデス様は
とても立派で、少しのことで泣くように見えなかった。だから私わかったの。あの方は深い悲しみを
持っている。自分を許せなくって、他の人を傷つけられなくって、でもそのせいで悲しさから抜け出
せない……ハデス様は本当はとっても優しいひとなのよ」
「ペルセポネ様はとてもお優しい方です。あなたのお気持ちを痛いほどおわかりでした。ですから、
あなたの行いを不問されたのです」
アテナはやさしく微笑んでみせた。
「あなたとの結婚もそれはそれでよいとお思いになった」
「しかしそれならば、なぜペルセポネは去ることを認めたのだ? 私を残し……」
ハデスは幾分声を詰まらせて言う。
「あのお方はあなたを愛しておられた。しかしお母上様も同様に愛しておられた……」
「ゆえに、より愛する母を選んだというのか?」
「それは違います。ペルセポネ様はあなたを愛することとお母上を愛することを比べようとは一時た
りとも思っておりません。それらはもともと性格を異にしていますから。あなたにも未練はおありだ
ったと思います」
「だが、行ってしまった」
「ペルセポネ様があなたを愛していた証拠に、あの方は柘榴の実を召し上がった。ここに帰ってくる
ことの約束して……」
ハデスとペルセポネとの不正な結婚に際して、ペルセポネの母のデメテルが異議を唱えたため、ゼ
ウスの仲裁によってハデスとデメテルとの協議が行われた。
その結果、結婚は取り消され、ペルセポネを地上に返すことになった。しかしその時、ゼウスはペ
ルセポネに一つの忠告を与える。それは冥界で食べ物を食べてしまうと地上に帰れなくなってしまう、
というものであった。
しかしゼウスの忠告もむなしく、ペルセポネは柘榴の実を冥界で食べてしまう。
そのためペルセポネは地上に帰れないはずであったが、デメテルの必死の懇願により一年の四分の
三は地上でデメテルと暮らし、一年の四分の一は冥界で暮らすように決められた。
柘榴の実はその時にハデスの方から差し出されたものであった。
しかし食べることを強要したというわけではなく、ペルセポネが出発前に喉が渇いていると思い、
持ってこさせたものであった。つまり、ペルセポネには選択の権利があったのだ。
母のために帰りたい。
しかしハデスを放っておくことはできない。
そのためにペルセポネは苦渋の決断をせざるをえなかったのだ。
「ペルセポネ様は本当にあなた様を愛しておられるのですよ……」
ハデスは何も答えなかった。
「私、あの方のそばにいなくちゃいけないと思った。あの方は、ハデス様は誰かが必要なの。誰かが
一緒じゃなきゃいけないの。……それで、その時私は思ったの。私が一緒にいる。私がついててあげ
なくちゃいけないって。……でも、もしかしたら私の方も誰かの役に立ちたかったのかもしれない。
前の暮らしは幸せだった。お花に囲まれて、お母様といつも一緒にいられて。でも、こう……何か…
…役に立ってないと思った。もちろんお母様のお手伝いでは役に立ってたつもりよ。……でも……でも
ね、それとは何か違うの」
春の暖かな風が二人の間を吹き抜ける。
ペルセポネはいつしか満面の笑みをたたえていた。
「私は幸せだった。ハデス様と一緒にいられて。ハデス様の役に立ててうれしかったし、あの方も私
に向かって笑ってくれた。ハデス様は私を愛してくれた。それで……その時気づいたの。……私もハ
デス様を愛しているんだって」
ペルセポネの顔が赤く染まる。
彼女は花冠をやさしく胸に抱いて目を閉じた。
私は娘をこんなに幸せそうにできるかしら。
この娘をこの手で本当に幸せにできるかしら。
いいえ。
晴れ渡った空の下、色とりどりの満開の花々に抱かれながら、愛する人のことを想う娘の姿を眺め
ていると、デメテルは複雑な気持ちになる。
娘の幸せは誰よりも望んでいる。
しかしその幸せを与えるのは自分ではない。
遠くへ行ってしまう。
それもまた想いを強くする。
「ああ、ペルセポネ……」
彼女は娘の姿を眺めながら、そして……悲しげに笑った。
|