「私はありとあらゆるものを手に入れた。地下の支配権、ありあまる富、主神にも引けを取らぬ名誉。
天上をゼウスが司るのならば、私はこの世を二つに分かつ地下を司る。それゆえ、私はゼウス・プラ
トゥスとして讃えられてきた」
 ハデスの口調はさらに重々しく響く。
 彼の視線はディオニュソスの瞳を貫き、その奥を、深く深く、ディオニュソスの心の中を越えた、
その先の心の奥底を必死にのぞき込んでいるようだった。
 ディオニュソスはその姿に圧倒されていた。
 ただでさえ近寄りがたい威厳をたたえた冥王の姿は、翳り、哀しみに支配されて、深々と、古木
のような気配に覆われていた。しかしその中にあっても瞳は恐ろしく冴え冴えとして、大樹の洞の
ように漆黒の厳然たる色をしている。
 ディオニュソスには彼の深い悲しみがそれだけでも体にしみ通ってくるようだった。
 しかしそれでも彼はハデスの瞳を見続ける覚悟をする。
 これこそ自分のやってきた意味。
 そう言い聞かせて。
「  だが、私にはただ一つのものがない。すべての権力、富、名誉と引き替えにして
もいい、ただ一つのものが……」
 冥王の漆黒の瞳が揺れる。
「私は……ただ、ひとたびの愛を望んでいる」
 声はあまりの哀しみのために、叫びをあげそうなほど張りつめていく。
「この冥府には悪心や憎悪、虚無や死滅した愛はありあまるほどある  だが、真実は
ひとかけらもなかった。私は空しさを感じた。権力や富や名誉では癒せない空虚を感じた。それはこ
の陰鬱さと漆黒の闇のせいかもしれない  だが、私の闇はそのためではない。では、
この空虚さはなんなのだ?   私はステュクスを眺めた。永劫の大河はすべてに答え
てくれる。私はよりどころを求めた  だが、ステュクスはなにも答えてはくれなかっ
た。私はひざまずき、祈った  だが誰に祈るというのだ? 神を救済するものなどい
ない。私はしかたなく目を閉じた。世界の光から逃れられると思ったからだ。  そし
て、私は闇から闇へ旅するうちに見たのだ。そう  お前の姿をな」
 ハデスは目を閉ざす。
「  私もまた独りだったのだ」



 沈黙。



 長い沈黙だった。


 二人の心はすでに冥界より遠い地を彷徨っていた。
 だが、沈黙の中から聞こえてきたのは、それでも何かにしがみつこうとする男の声だった。
「私はこの冥界へやってきてから真に安らぎを感じたことがなかった。配下の者、大地の神々は私を
時折楽しませてくれた。だが、私の心はそれでもなお満足するにいたらなかった。私には……伴侶が
必要だったのだ。私の存在を認めてくれ、私もその存在を認められる存在。私は切望した。心の底か
らな」
 ハデスは窓から曇った地平線を眺める。
「あのころの私は若かった。自らの感情を抑える術を十分知らぬ、若輩者だった。この切望が叶うな
らいかなることでもやろう。そう、真剣に思っていた。そしてある日、そのことを聞きつけたゼウス
が私に提案した。『デメテルの娘ペルセポネは嫁ぎ先が未定の身。兄上、いかがか?』と。私は喜ん
でその申し出を受けた。今考えれば後先を考えず、ただ己の獣欲に身を任せ、行動を抑えきれぬこと
こそ私の愚かさの元凶だったのだ。私は野に戯れるペルセポネを乱暴に連れ去り、抗う彼女に有無を
いわさず、愛し合う親子を引き裂いた……」
 ハデスの表情がこの上ない負の色に染まっていく。
「私はペルセポネを冥界へ連れてきて初めて己の愚行を恥じた。とてつもない後悔に襲われた。純粋
に笑っていたペルセポネが、冥界を恐れて、私を恐れて泣き叫ぶ声を聞き、その無垢な顔を涙で濡ら
すところを見ると、その思いは私の心を抉った。  私の心の闇は、結局闇にしかなら
なかった。私がいくらペルセポネを愛そうとも、彼女がそれに応えるはずなどない。彼女は私を恨ん
でいる。表面では私への愛を演じようとも、私のした暴虐を恨んでいるのだ。私は……私は……それ
がたまらなく悲しい……」