陸地が見える。 平らに水面に広げられたような白い陸地は、薄霧に見え隠れし、高台にいくつか薄墨色の建物がか すかに見えるのみで、その姿を容易に見せようとしなかった。 「あれが冥府ですよ……」 カロンは言葉少なげに言った。 冥府の霧は水面を伝い、小舟の方まで押し寄せてくる。 黒々とした水面は、白く煙る霧でその暗黒の体表を徐々に薄墨色へと変化させ、白濁した流れへと 姿を変えた。 「うう、さぶ……」 水面の様子を見ていたアポロンは肌を伝う寒さに思わず、身震いをする。 確かに先ほどまでいたところより気温が下がっているようだった。霧が冥府の冷気まで届けてきた のだろうか。 「うわぁ、ちょっと、何にも見えなくなっちゃったじゃない」 いつの間にか霧は小舟の四方を完全に取り囲んでいる。これでは前後不覚に陥ったことに等しい。 「大丈夫ですよ。冥府は恥ずかしがり屋でしてね、こっちが知り合いだってわかるまでこうして霧で お隠れになる」 カロンの言うとおり、そのうち霧の切れ間が小舟の前方に浮かんできた。そして知った家のように、 そちらへ小舟を進ませる。 霧の切れ間から見えてきたのは、一つの巨大な門であった。 黒光りするその大門は背後や左右が暗く閉ざされているため、岸辺にただ一つ屹立しているようだ った。上部が闇にかすんでいるためか、まるでこの地下世界をこの門一つで支えているような錯覚を おぼえる。 「あれが冥府の門です」 小舟はゆっくりと大門の前へ進み出ていく。 大門の偉容は真下から見るとより圧倒的であった。 それは警告である。 生者がこの地へ近づくことを拒む威圧である。 闇に浮かんだ大門は無言のうちにそう語っているようだった。 「こりゃ、オリンポスの門よりでかいんじゃねえか?」 岸に着けた小舟を下りながらアポロンは口を開いた。 「まあ、それはそうでしょう。ここはオリンポス山よりも入るものを選びますから。神様といえどもね」 その時、彼らの目の前で大門が地鳴りとともに轟音を上げながらわずかに開いた。 彼らを歓迎しているかのように見えた門であったが、意に反し、門扉の隙間から出てきたのは、眼 光炯々とした丈の長い黒服の男と、重装備の男達数人であった。 「オリンポスのお歴々、ひとまずようこそおいで下さいましたと申しておきましょう。しかしここを 通すわけにはいきません。ディオニュソス殿はただいま冥王様と会談中でございます。まことに恐縮 ながら、私どもの判断でお引き留めさせていただきます」 黒服の男はそう言うと一歩前へ進み出た。 「ミノス様……」 ミノスはカロンの方を睨む。 「カロン殿もカロン殿だ。冥界の淵でお引き留めなさればよかったものを」 「おお、これは失敬。あたしもディオニュソス様の追っ手が来たら引き留めるつもりだったのですが、 不意をつかれまして……」 「フン。まあ、よろしい。……オリンポスのお歴々。私もディオニュソス殿の罪状は存じているつも りです。しかし、こちらも緊急事態ゆえ、お二人の会談が終わるまでここは一歩たりともお通しする わけには参りません」 ミノスの一声によって重装備の男達が横一列に並ぶ。 それに黙っていられないのはアルテミスである。 「ここまで来て引き下がれって言うの!? そっちの事情がどうだろうと、私は今猛烈に怒ってるの! そこ退きなさいよ!」 「アルテミス殿、今しばらくお待ちになればすぐにディオニュソス殿はお引き渡しします。そのあと でも十分ことをあらためることができると思いますが、それでもお通りになるおつもりか?」 「私は今すぐ会いたいのぉ!」 勢いだけのアルテミスにミノスは少々面食らったようだったが、すぐに襟を正して言う。 「仕方ありませんな……」 緊張が走る。 凍える冥府の岸はその瞬間、状況はどうあれ、温度が下がったようだった。 始めに走り出したのはアルテミスの方だった。 それを見た男達もいやがうえにも体勢を整える。 その光景にヘルメスは短くため息をついた。 「どうします?」 「アルテミス様があちらで兵を止めている間に、私たちは門から入るというのはどうでしょう?」 アテナはそれを真顔で言うのだった。 「は、はあ……」 ヘルメスはたじたじとなる。 「捨て駒ねえ……ま、いんじゃねえの?」 アポロンが横から口を出す。 「うぬぬぬ。予想はしておりましたが、噂に違わずお強い……」 ミノスは焦っていた。 荒れ狂うアルテミスにばたばたと男達がなぎ倒されていく。 明らかにミノス側の不利であった。 ミノスはアルテミスの強さに悪寒を感じながらも、決心したように小さくうなずく。 そして懐から掌に収まるほどの小さな笛を出した。 音は聞こえなかった。 確かに彼はその笛を吹いているにもかかわらず。 しかし、それが何を意味するのか、その直後判明する。 彼らの今いるところより左手、冥府の河原が闇に没するところから、空気を振るわす重低音の咆吼 が突然鳴り響いたのだ。 それはまさしく地を這うような凶悪な咆吼であった。 白い六つの眼が闇に灯る。 真っ赤な口が闇の中に開く。 咆吼はいつしか三つの凶暴なメロディとしてあたりに鳴り響いていた。 「ケルベロス!」 ミノスが言うが早いか、六つの眼が突如跳躍し、闇からその姿を現した。 地鳴りとともに降り立ったのは漆黒の体毛に全身を覆われた三首の巨犬であった。 その巨大さは大門と比べてみても見劣りせず、眼は獲物を欲するがごとくぎらぎらと光り、口は炎 のように赤々と燃え、牙は象牙のように口内を縁取っている。足の大きさも普通の人間ならば二、三 人まとめて踏みつぶすぐらい巨大なものであった。 だがアルテミスの身中に宿った炎を消すには、この威容でさえも役不足らしかった。 「へえ、これが冥府の番犬・ケルベロスか。でも、ヘラクレスに手なずけられてんじゃ、ただのワン ワンよねぇ」 地獄の番犬の前に立ってもアルテミスはまったく臆せず、平然とケルベロスを見上げていた。彼女 は恐怖などどこへやら、歓喜に微笑んでさえいた。 「くふぅ……こ、これほど侮辱されたことはござらん。このケルベロスは不法な侵入者を容赦なく喰 らう、魔犬ですぞ!」 それに対してアルテミスは言い放った。 「ご託はいい! かかってきなさい!」 ミノスの脅しも怒りと狂喜に身を任せたアルテミスには効果がない。 「うぬぬ……ええい! 行け、ケルベロス! アルテミス殿を捕らえるのだ!!」 吠え声を上げながら、ケルベロスはアルテミスに飛びかかった。 「……八つ当たり場所を探してたんだ。ちょっとは楽しませてよね」 直後、アルテミスとケルベロスは轟音を上げて激突したのだった。 アポロン、ヘルメス、アテナの三人はやれやれといった感じで彼らを見守っていた。 結局三人はアテナの提案どおり、乱闘の隙に門を抜ける作戦を実行することにする。 アルテミスとケルベロスの脇をとおってソロソロと門に近づき、中へ入る。 アルテミス達はそのことに気づかない。 しかしただ一人、ミノスだけがさすが職業柄集中力がさえているのか、めざとく三人の動きを察知 する。 彼は三人を追いかけた。 しかしその時にはすでに三人は門の内側に入り込んでいた。彼はアルテミスとケルベロスの方を見、 若干躊躇した末、しかたなく三人の後を追って門の中へ入っていった。 |