渡し守カロンはディオニュソスを送り届けて一服ついていたところだった。彼は煙を吐きながら、
ふとディオニュソスのやってきた穴の方を見た。
 すると、何やら人影が見える。
 その人影は始めうっすらと闇に浮かんでいたが、だんだんとはっきりしてくるにつれ、カロンは表
情をこわばらせていった。
 彼は気づいた。
  人影もどうやらこちらに気づいたようだった。
 人影は獲物を発見した猟犬のごとく駆けだしてきた。そしてあっという間にカロンの首根っこをひ
っつかむと鬼の表情を彼の目の前に突きつけた。
「あいつはどこ!? どこなの!? 答えなさい!!」
 アルテミスだった。
「おやめなさい!」
 いつの間にかやってきたアテナがアルテミスを一喝する。すると、アルテミスは正気に戻ったのか、
申し訳なさそうに手を放した。
 しかしその時にはすでにカロンはアルテミスの乱暴な所作によって目を回し、ヘロヘロになっていた。 
「にゃひほにゃひゃひみゃふぅ……」
 カロンは言葉にならない声を上げていた。
「ああ、これはいかん。これ、カロン、目をさませ!」
 またどこからか現れたヘルメスがカロンの体を揺さぶる。
「ひゃ? ひぇぬめひゅひゃまぁ?」
「そうだそうだ、そのヘルメスだ」
「こりゃ、だめだな……」
 アポロンが眉間にしわを寄せる。
「たくっ、お前は見境がないんか!」
「そういうわけじゃないけど……つい、ね」
「つい、ね、じゃないだろ!」
「ところでお姉さん……」
「おいおい、話そらすなって!」
 それまでいろいろなことがあったせいで少しおかしくなったアポロンはさておき、アルテミスはア
テナにたずねた。
「これからどうしよう」
 アテナはいつも冷静沈着、落ち着いて話す。
「このあたりにディオニュソス様が来たことは間違いないでしょう。このあたりにいないとすると、
対岸に渡ったことになりますね」
「でも、なんで冥府なんかに?」
「それは私にもわかりません。しかし、ディオニュソス様を追うとなると、やはりカロンの目をさま
させねば」
 アルテミスはサッとカロンの方を見やる。
 カロンはさっきまで吸っていた煙草と相まって、酔っぱらって目を回し、いまだにヘロヘロの状態
である。
「こらぁ! ヘロヘロになってんじゃないっ!」
 その怒声がカロンに届くはずもなかった。
 そこにアポロンが口を出す。
「水でもぶっかければ直るんじゃね? ほれ、ちょうどそこに水もあるしよ」
 アルテミスは川岸に近寄ってみる。満々と水量をたたえたステュクスは薄明かりのためか、あるい
はもともとそういう色をしているのか、黒曜石のように輝き石油のように流れていた。
 いかにも普通の河ではない。
「この水を……?」
「大丈夫だって。アキレウスだって赤ん坊のころ浸かったのに大丈夫だったんだから」
 アルテミスは英雄の話を聞いても、明らかにいやそうな顔である。 とはいったものの、他にめぼ
しい方法がないのも確かである。
「大丈夫かなぁ」
 しかたなく提案をのむアルテミスだったが、そこである問題に気づいた。
 ステュクスの水をカロンに浴びせるには何か水を汲むものが必要である。
 しかし、ここは冥界の川岸。
 ただでさえ殺風景なこの場所にそんなものがあるはずもなかったのだ。
 二人は考え込む。
 と、アポロンが何かを思いついた。
「しょうがねえ、放りこんじまえ」
 暴言を吐く。
 と、言う間にカロンを軽々肩に担ぎ上げる。
「ちょ、ちょっと、やめなよ!」
 アポロンはやはりどこか頭のネジがはずれていたのだろうか。
 アルテミスの制止も聞かず、そのまま豪快に川の中へ放り込んでしまった。
 水しぶきがこれまた豪快に立ち、カロンの体はゆっくりと沈んでいった。
 それと同時に水面に気泡が立ち始めた。しかしそれも徐々に消えていく。
「あ……」
 しかし、その時水面を突き破る水しぶきがあがった。
 水中から顔を出したカロンはヒィヒィ言いながら、川岸にやっとのことでたどり着いたのであった。
「お、お前、無事だったのか……」
「……あ、あたしはこの川の上はいつも行ったり来たりしてますがね、水の中じゃそうはいかねえんだ!」
「…………あ、そう」





 危うく溺死しそうになったあげく、その足で四人を冥界まで送り届けなければならなかったカロン
だったが、舟の上では一転上機嫌だった。
 なぜなら、ヘルメスと久しぶりに会えたからだ。
 昔、カロンは人間界を見物に行ったことがあった。しかし、冥界の渡し守のカロン、冥界のことな
ら知り尽くしているが、外の世界には滅多に出たことがなく、不勉強この上なかった。
 その時に道案内役を買って出たのが、ヘルメスだった。彼は死者の道案内役としての職能柄、カロ
ンにはよく会っていたし、道案内としてはプロフェッショナルである。この有能なガイドのおかげで、
カロンは人間界を思う存分満喫できた。そして、それとともにカロンは親切に案内してくれたヘルメ
スに信頼と尊敬の念を寄せるようになったのである。
 それからというもの、カロンは死者の魂を案内して冥界の淵へやって来るヘルメスに対して挨拶を
欠かしたことがなく、またヘルメスの方もカロンに対して挨拶を欠かしたことがなかった。
 だが、それもハデスの不機嫌によって死者の魂がめっきり減り、ヘルメスの往来も減ると、普段一
人で働いているカロンは少なからず寂しさを感じるのだった。
 普段気にもしなかったことを失って初めて、とても大事なことだったのだと気づく。
 カロンは人恋しくなった。死者でもいい、誰かと話したかった。彼は暗黒の闇の中でただ一人、静
かに訪問者を待っていたのだった。
「いやぁ、久しぶりのお客人であたしの舟も喜んでますよ」
 彼は満面の笑みで舟をこいでいた。
「そんなこと言って、私たちの前にディオニュソスも乗せたんだろう?」
 ヘルメスがめずらしく、からかい調子に言う。
「そうでしたね」
 黒い波間に小舟は浮かんだり沈んだりを繰り返す。
 小舟はいつになく滑るように水面を進んでいた。
 アルテミスを先頭に、アポロン、アテナ、ヘルメス、そして船尾で舵取りをするカロンと、端から
見ればそろいもそろってある意味恐ろしい神々が、一つの舟で河を渡っていく。
 聞こえるのは舟板をとおる波の音。
 神々はしばらくその音色に耳を傾けていた。