二神は対峙していた。
沈黙は長かった。
ハデスは窓際で椅子に座り、大河ステュクスをうつろな瞳で眺めていた。
ステュクスは未来永劫不変の黒々とした水面を時に黒曜石のように煌めかせながら、うねり、のた
うち流れている。彼女はハデスの顔を白く、うっすらと輝かせ、瞳にわずかな灯火を宿らせていた。
ディオニュソスはその場から動かなかった。
彼はハデスの横顔をじっと眺めていた。
闇に縁取られたその横顔はただでさえ鬱々とした陰りがあったが、内心に秘めた心持ちゆえいっそ
う陰りを増していた。
彼は自らの境遇を想った。
だが、別の自分がそれを自嘲する。
彼はけだるかった。
「儚い 」
ハデスの声は静かに響いた。
「すべては儚い。 それは神とて同じこと」
瞳を閉じ、
「永遠の肉体を持とうとも、心まで不死にはなれぬ。 ディオニュソスよ、お前の母
君のことを思いだしていた」
その言葉にディオニュソスはゾクリと怖気が襲ってくるのを感じた。
「母君の死は不憫であった。お前の嘆きを思い出す。だが同時に、その時私が一時の安らぎをおぼえ
たことも思い出すのだ。お前は私の闇を知り得るとな……」
ディオニュソスの顔から血の気が引いていく。
「それは、いったい……」
ハデスは肘掛けに頬杖をつく。
「お前がここに来た理由と同じだ………」
彼は椅子から立ち上がり、黒いガウンをはらませながら、
「案内しよう」
と言って、窓と対角線上の隅にあるドアを開けた。
石の回廊を抜けると、分厚い木の扉があった。
扉は重く軋みながら開いた。
部屋は思ったより狭く質素だった。しかし天井あたりから腰ほどまでのびた窓が三つ開いていたた
め、窮屈さは感じられない。ただ、三つの窓で分断された壁がまるで鉄格子のようで不気味だった。
天井から部屋全体に白い光が投げかけられている。先ほどまでいた薄暗い応接室より陰鬱さは減った
とはいえ、暖かみはなく、部屋の中を異様な鮮明さで映し出すその光には言いしれぬ虚無が宿っていた。
ハデスは上座の背の高い玉座に座り、ディオニュソスは誘われるままにその前の椅子に座った。
彼らの間には長方形の黒ずんだ木のテーブルがあるだけで、部屋の中にはその他に何もなかった。
「このような場所ですまぬ。この館には客人をもてなす場所がないのでな」
ディオニュソスはうつむく。
「お前の来た理由は聞いている。……カロンに言われたのであろう。ミノスはそれを望んでいる。彼
らには感謝せねばならない。私の良き部下達だ。
……だが、私の懊悩は冬まで癒えぬだろう。たとえ私の心を知る者が来たとしてもだ。……それは、
気休めに過ぎない」
ディオニュソスは口を開こうとはしなかった。
しかし、しばらくしてからつぶやいた。
「いや……そんなことはねえ。……そんなことはねえさ」
ディオニュソスは顔を上げた。
「あんたが悩んでる理由はわかんねえ。でもあんたは寂しそうだ」
「だから慰めようというのか?」
「そんなんじゃないさ。ただ……俺と似てるから……」
ハデスは心なしか笑ったように見えた。
ディオニュソスは決意したようにハデスを見つめる。
「俺はひとりぼっちだった。 やっとまわりがわかるようになったころだ。俺には母さんがいねえ、
いるのは偉大で、神々の頂点に立つ父さんだけだってことがわかったのは。 父さん
は母さんを殺した。それが生まれてくる俺のために仕方なくしたことだってわかってた。だけど、父
さんが俺を見る眼、その眼にはなんだか母さんの影が映ってるように見えた。俺を見ていない。母さ
んを殺しちまった償いに俺にあれこれ世話を焼いている。俺は母さんの身代わりなんだ。俺にはそう
思えてならなかった……」
ハデスはディオニュソスの姿をじっと見守っている。
彼の瞳はいつの間にか黒く澄んで、ディオニュソスの姿がうっすらと映っていた。
「……だから俺は父さんの影、母さんの影から逃げ出したくなって、子分になったサテュロス達とあ
ちこち旅した。楽しかったよ。いやな思いをしなくてすんだんだからな。朝まで踊り明かしたり、酒
をそれこそ腹がはち切れるまで、べろんべろんに酔っぱらうまで飲んだよ。あのときが一番楽しかっ
た。なんにも考えないで、遊びほうけてりゃよかったんだから。……だけどある時、俺のやるそうい
うことを見て、父さんが俺に『陶酔と歓喜の神』っていう肩書きを勝手に付けてから、なんにもやる
気がなくなってきた。なんだか父さんが俺に気をつかって、神様のやるべき仕事っていうのか、俺の
やることをそんな風にしちまった。遊びも仕事にされちゃ、やる気もおきない。だから俺はイライラ
してしてきて、でも、そのせいで今みたいに風当たりが悪くなった」
ディオニュソスはまっすぐにこちらに向けられるハデスの視線を感じ、
「ハハ、なんでこんなことしゃべってんだろ。ここって尋問室も兼ねてんのかね」
ハデスはなおもディオニュソスをじっと見つめている。
「なんか一人でしゃべりすぎちまった。そっちの話も聞かせてくれよ。これじゃあんたの話を聞きに
来たのと逆になっちまう」
ハデスはそれを聞くとディオニュソスから視線をはずし、椅子に深く掛け直した。
「お前がそこまで話してくれたのだ、聞かせないわけにもいくまい」
彼は目を閉じた。
そして沈黙すると、静かに語りだした。
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