アルテミスがいる。
 猛烈に怒っている。
 アポロンが倒れている。
 アルテミスの鉄拳で後頭部を強打され倒れている。
 ヘルメスがいる。
 アルテミスに突き飛ばされ倒れている。
 アテナがいる。
 槍の石突きをアルテミスの腹部に突き立てている。
 楽々と突き立ている。
 彼女達はまったく動かない。




 アポロンから経緯を聞き終わったアルテミスは、突然ガタガタと震えたかと思うと、猛烈に怒りが
ぶり返してきたのか、またもや鬼の形相となり、走り出そうとした。
 妹の変化を察知したアポロンは、「これはいかん!」と妹に躍りかかり、ヘルメスも遅れまいと飛
びかかった。
 だが、今となってはそれも無意味であった。
 眼光一閃、アルテミスは右腕に張り付いたヘルメスを高々と宙に放り投げた。
 ヘルメスが地面にもんどり打って墜落するのが早いか、アルテミスは左腕のアポロンを前方に投げ
飛ばし、その余力で猛然と駆けだした。
 その時、アポロンが全身の痛みを耐えて体を起こさなければ、その後のさらなる悲劇は防げたかも
しれない。
 だが、アルテミスが駆けてくる真ん前に彼は背を向けて起きあがってしまった。
 当然アルテミスは彼を「敵!」と見なし、力任せに左手を振るう。
 そしてあえなく、アポロンは後頭部に痛恨の一撃を受け、轢殺されるがごとく、俗にカエルがつぶ
された声といわれる声を発しながら、再び地面に倒れた。

 アルテミスは兄を轢いてもなお止まらない。
 さすが野山を駆ける狩猟の女神、その足はまさに風のごとしである。
 ディオニュソス一行を追っていた比ではない。人間ならば感知すらできないだろう。
 彼女は目にすら映らない。
  だが、猛然と駆ける彼女の走りもそう長くは続かなかった。
 前方が眩い光に包まれたかと思うと、彼女は金縛りにあったように突然止まったのだ。
 彼女の腹部には棒が突き立てられていた。
 彼女が全力の力を振り絞って足を踏み出そうとも、腹部の棒が邪魔をしているのか、あるいは何か
別の力が働いているのか、彼女の体は前に進むことができなかった。

「気を、静めなさい」

 棒の先から声が響いた。
 棒は、よく見ると石突きの部分を前に突き出した槍であった。
それは美しく鍛えられた青銅の槍であるらしく、また槍身の根本を握る白無垢の衣から見え隠れする
手も、同じく美しく鍛えられていた。

「気を……静めなさい」

 その声は優しく、しかし冷然と響いた。
 声の主は視線をアルテミスの瞳に注いだ。
 二人の視線が交錯する。
 アルテミスはその瞳に戦慄をおぼえた。
 決然とした、どこまでも決然としたその瞳は空気のように澄んで、何ものをも見通しているようで
あり、何者をも包み込むような、一度見たら忘れられない、そんな瞳だった。
 アルテミスはその瞳に射抜かれた。狩猟の矢、彼ら兄妹が放つ不幸の毒矢よりも、それは神をも畏
怖させるにあまりあるものだった。
「アテナ……」
 アルテミスはそう呟くと、全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。



 その頃、ようやくヘルメスは目をさました。
「……うぅ、まったく世話の焼ける神だ」
 彼は何とか体を起こすと、近くに転がっているアポロンのもとへ近寄っていった。
 アポロンはうつぶせに倒れていた。
 土で汚れた体は痛々しく、顔が地面にべったりと張り付いて微動だにしない頭部が、さすがのアポ
ロンも死んだのかと思わせた。
 しかし、彼は生きていた。
「……侮辱だ。俺に対する侮辱だ!!」
 アポロンは顔を上げずにうなっていた。
「アポロン様ぁ〜! ヘルメス様ぁ〜!」
 その時どこからともなく珍妙な声が聞こえてきた。ヘルメスはアポロンから視線を転じ、アポロン
も少し顔を上げる。
 金色の両翼がふわりふわりと葉の間から舞い降りて、小さな人影が姿を現した。
「ニケか……」
「ニケ……?」
 二人はそれぞれつぶやいた。
「両神様ともお久しぶりでございます」
「つうことは、アテナも……?」
「はい」
「……まあ、大体お前の来た理由はわかる。……援軍であろう」
 狡知のヘルメスはすぐに察する。
「はい、左様で。主神様のご命令でアルテミス様をお止めしろと」
「なるほど、またあの親父は俺らのことのぞき見してたってことか」
 アポロンは苦虫を噛み潰したような表情でつぶやいた。
「はい、主神様は広い大地の隅々までお目がお利きになられますから」
 アポロンはドサッと顔を地面に沈めた。
「それで、もうアテナ様はあちらにおいでなのだな?」
「はい、先刻私と別れまして、アルテミス様のもとへ向かわれました。今頃はアルテミス様を説得な
されているかと」
「あの姉ちゃんがそんな面倒なことするか」
「は?」
「……しかたねえ、行くか」
 アポロンは体を重たそうに起こす。
「あの、まだご説明が……」
 アポロンとヘルメスはニケに見向きもせず、ぞろぞろと歩き出していく。
「あの……」
「よいよい。あちらでアルテミス様と一緒に聞こう」
「そ、そうでございますか……?」
 ニケはふわりと羽を振るわせ、二人の後を追った。