「ん? 誰だ?」  
 ひょろ長い電球頭の男がたずねてきた。
 ディオニュソスはかすみの中の男のもとに近づいていく。
 考えてみればおかしなことだったのだ。
 洞窟の中に霧が立つはずもない。
 そして今度は男がいる。
 それも腰にすり切れたふんどし一枚でこんな凍えるような洞窟に男がいる。
「誰だ、あんちゃん?」
「ここ、もしかしてヤバイところか?」
 電球頭の男は、ディオニュソスの顔をジロジロ見て、
「あんちゃん、人間じゃねえな? 神さんか?」
 ディオニュソスは少し怪訝な表情で男を見やった。
 男の身長はそれほど高いというわけではない。だが、全体的に肉付きが悪く、肩や太股、胸ぐらい
にしか筋肉がついておらず、その上、腕をだらんと垂らしているので、縦に長細いと思わせるのだっ
た。生気がなく、青白い肌は、いかにも不健康そうだ。
「ん? あんちゃんどっかで見たことあんな……」
 男は雛鳥のようなわずかに毛が生えた白髪頭をさすりながら、しばらくしてハッと気づいたらしく、
「もしかしてあんちゃん、ディオニュソスさんじゃねえか? ほれ、憶えてねえか、ちっこい時に一
度だけ会ったことがある、カロンだよ!」
 その言葉にディオニュソスも気づく。
 ディオニュソスは幼いとき、死んだ母を連れ戻すための旅の途中、彼に会っているのだ。
 数々の英雄、聖者、極悪人を区別なく死者の国へ送り届けてきた、冥界の川ステュクスの渡し守、
カロンに。
「ああ、あん時の。気づかなかった」
「そりゃ、無理もねえ、ちっこいときの話だからな。そういうあたしも毎日数えきれねえほどの顔見
てるもんだから、すぐにゃあ思い出せなかったわ」
「久しぶりだな……」
「ええ、お久しぶりです。……あの、ところで、なんでこんなところに来なすったんです?」
「え? ああ、そのことか……」
 カロンはディオニュソスを舟のお客を待つときにいつも休む休憩所へと案内した。といっても、そ
こは石が転がっているだけの川岸だったが、腰掛けるには手頃な石がたくさんあるために、カロンの
休憩所となっているのだった。
 どこからか漏れこぼれてくる薄明かりが黒々とした川面に反射し、あたりを照らしている。川面の
反射によってまわりの景色は輪郭がはっきり見えていたが、それでも明かりは弱々しく、月の光より
も薄暗かった。
「時に、坊っちゃん、冥王様に会ってくれませんかね?」
 昔話を二人がし始めてからしばらくして、カロンは唐突にそう言った。その言葉はいつになく気楽
な調子で、よく注意していなかったら聞き流していたかもしれなかった。
「おい、そりゃどういうことだよ」
「いや、たいしたことじゃないんですよ。ほれ、もうすぐ春でしょ。奥方のペルセポネ様が母様のデ
メテル様に連れられて行っちまったせいで、このごろお元気がないんですよ。冥王様が元気じゃねえ
と困りますんで、ほんで、誰ぞに慰めてもらわないとならな、と考えていたところでして」
「ああ? そりゃお前らでやりゃいいだろ」
「やってみましたよ。ですが、どうも鬱いだままで、いっこうに良くなりやせん。逆に顔も見せんよ
うになっちまって……」
 ディオニュソスは考えこんでは見たものの、あまりやる気がなく、薄気味悪い冥界に行くことにも
気が進まなかった。
 ディオニュソスは困り顔で頭を上げた。すると、彼らのいるところから少し行った霧と薄明かりの
むこうに、なにかの影がちらついているのが見えた。彼がしばらくその影を眺めていると、それが板
きれのようなものであることがやっとわかった。ゆらゆらと上下に揺れ動いて、まるで闇の中に浮か
んでいるようだった。
「あたしの舟ですよ」
 彼の様子を見ていたカロンが言った。
「あんまり客はいねえな」
「閑古鳥が鳴いてますよ。こんなこたあ滅多にないんですが。これも、ハデス様の不機嫌のせいなん
ですかねぇ」
 カロンが嘆息を吐くのをディオニュソスは横目で見ていたが、すぐに視線をそらした。
「ミノス様もお困りでしたよ。『このままでは地上は人間で埋め尽くされてしまう』ってね。死人が
出なきゃ、こっちゃ食いぶちがつぶれちまいますよ。死神の奴らなんか、仕事がないんだか知らねえ
が、ゴミみてえにゴロゴロしてますし」
 ミノスは生前クレタ島の王だったが、死後、生前の慧眼を買われ、冥界の裁判官となっている。
 そのほとんどが冷静さと公正さを持ち合わせている冥界の管理人達だが、殊にミノスとなると職業
上、冥王ハデスにつぐ冷静な判断力と公正さ、いわば裁定の冷徹さの固まりのような男である。
 その冷静さを持ったミノスをも困惑させるほど、事態は緊迫している。カロンの話しぶりほど内容
は気楽なものではない。
 しかし、ディオニュソスにはどこか踏ん切りがつかないところがあった。
「奥方様がいればこんなこたあ収まるんですが……」
 
 その時。
 
 ディオニュソスの心はなにかを感じた。
 
 なんだ……。

 彼の眼は遠くを見ている。

 水面が体を震わせる。

 河の流れは滔々と。

 河の音色は聞こえず。

 だが彼女は歌っている。岸のほとりで、サイレーンのごとく。

 河にかかる霧はいつの間にか消えていた。

 河面の緩やかさが目につく。波は荒立っていない。

 カロンの小舟はまるで遊びだしたい子供のように、岸にかけた綱をギシギシと引っ張っていた。

 この地のすべてが言っている。

 無表情に、手をさしのべている。

 この手を取れと。

   ああ、なんだってんだ。
 それほどなのか。
 畜生。
 彼は観念したようにため息をついた。
 その音に気づいたのか、カロンが顔を向けてくる。
 クソ。
 ディオニュソスはふて腐れたように言った。
「……わかったよ! 行けばいいんだろ、行けば!」
 それを聞くと、カロンの顔が明るくなった。
「別に機嫌とりに行くわけじゃねえぞ。あそこなら兄貴達もそうは追ってこられないからな」
「それはそれは……。しかし追いつめられたら逃げ場はありませんね、あすこは結局のとこ行き止まりですから」
「お前は黙って案内しろ!」
「へいへい。……しっかし、久しぶりのお客であたしの舟も喜びますわ」
「別に俺は死にに行くわけじゃねえんだ、黙ってろ!」
 二人は舟に乗り込む。
 カロンの櫂先が岸を押し、舟は寂しげに、しかし流れるように出発した。
 冥界の大河ステュクスは、その黒々とした体に彼らを抱き、幽玄にきらめいていた。