酒を酌み交わすのは、親愛の情からではない。両者の間に緊張を孕んでいること
を忘れないためだ。
土器に毒を盛るためだ。
酔った鼻先を潰すためだ。
寝込みを襲うためだ。
この老獪の強者がなにを考えて一献を興じたのかはわからない。しかし、欺されはしないと思った。
「仇討ちに参りました」
道場で告白したときにも、元春はさして驚ろかなかった。血気にはやる一之介の眼をぼんやりと眺
めて、それから窓の外に垂れる枝と空を眺めた。
「ヌシ、いける口か」
一之介が応えに窮していると、
「酒を愛すは嗜みぞ」
薄気味悪く笑った。
それゆえに、庵で土器を差し出されても、酒に毒を盛るつもりではないかとまず疑った。元春が土
器に口を付けたのを見届けてから、己も用心深く舐めてみた。
舌が痺れた。加えて、独特の芳香に咽せた。
それを見た元春はくつくつと笑って「毒ではないぞ」と、ぐいとあおるのであった。
が、毒に違いないと一之介は思った。土器をのぞくと、濁酒が泡立っていた。
その間にも、元春は手酌で次々と飲んでいく。
その様を一之介が恨めしそうに見ていたに気づいたのか、炉端においていた烏賊だか鰭だかわから
ない乾物を手にとって「喰うか」と差し出す。
一之介は渋々手を出す。元春が噛みちぎって、すでに酔ってきたのか腑抜けた笑みを返すので、一
之介はこれも注意深くかじった。
むしろこちらの方がいけた。一之介の好きな味だった。
今度は顔色を変えず、熱心に咀嚼しているのが目に付いたのか、元春は笑って土器をあおった。
一之介にしてみれば、懐柔されたも同然である。が、元春になんら謀るところがないとわかって少
し安堵した。いや、かえって元春の隙をうかがえる機会かもしれない。そう思うと、口に流し込み続
ける元春がなぜか無性に苛立たしく、見せつけるように土器をあおった。
が、案の定、うしろに反っくり返るはめになった。
それから、肴の乾物だけは一之介が選ぶことになった。
週に二三度はそうした誘いがくる。どうやら、一之介だけが呼ばれるようだった。
晩酌を伴にしていると気づく。元春は炉端の火に照らされているのか、酔ってそうなっているのか、
朱く熱って明らかに酔っている。
無論、ことあれば何らかの手段を講じてくるだろう。しかし、飲めばそれだけ機転が回らなくなる。
目の前に己を狙う者をおいて、そんなことをするものだろうか。
謀っているのかとも思った。
しかし、元春は無邪気に飲み食いするだけである。
たまにまだあまり飲めない一之介を見てからかったり、世間話をして費やすことあれど、まったく
隙だらけなのだ。
いまの一之介ならば、あるいは討てるかもしれない。しかし、土器持つ元春は道場に立つ時とは違
い、あまりに好々爺であった。仇討ちならば尋常に立ち合いで決着したいという思いもあったが、こ
んな赤ら顔の老者を討ったところで得るものは少ない。
ゆえに一之介はおとなしく晩酌の伴をする。
結局、あまり考えてはいけないということにし、土器に口を付けるのであった。
……思えば、こんな落ち着いた気分は忘れてしまったことではある。
一之介は五年あまりの間、独りだった。ただ、仇を討つという感情だけが生きる意味だったようだ。
そこには他のなにものもなく、黒々とした想いしか残っていない。
なんともいえない芳香を残して人肌の酒が胸に染みた。
「む。この酒」
元春が怪訝に土器を嗅ぐ。
翌日、一之介と元春は酷い宿酔のため、揃って道場に現れなかった。
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