2
十年前。
一之介が父に教えられ、小枝を振り回して遊んでいた頃であった。
ある日、一人の男が訪ねてきた。身なり枯淡にして、どこか隠者を思わせる男であった。
父はその者を手厚く迎え、しばらく話し込んでいた。庭で一人小枝を振っていた一之介には、奥の
床の間でなにを話していたのか知る術はなかった。あとになっても父はその男が何者かということを
一切話そうとはしなかった。
それから数日。早朝から小雨の降る日だった。
父は一之介に「すぐに戻る」と言って家をあとにした。
その顔はいつもと変わらぬ笑顔であった。が、一之介はその中に嫌なものを感じた。
遠くへ行ってしまう。
そのような不吉の影を、幼いながらも読み取った。
大人の足、それも兵法者の足である。一之介が門から出たときには、すでに父の姿は遠く、遥か彼
方の角に消えようとしていた。
駆けた。
子供の足で追いつけるかもあやしい。しかし、幼い一之介はなにも考えず駆けた。
ただ不安だった。
記憶の断片にしかすぎない母の代わりに、父だけが一之介にとってのただ一人の家族だった。その
父が、目の前からいなくなってしまう。とても恐ろしいことに思えた。
しかし、追いつこうとすればするほど、探そうとすればするほど、消えた父の姿は遠のいていく。
あてどもない道行きに何度も挫けそうになった。知らぬ町、知らぬ風景に囲まれ、涙がこぼれそう
になった。
しかし、そうした時になると、強く心の奥底から声がする。
『一之介。お前は弱い。しかし、弱さを認めるものだけが強くなれるのだぞ』
それは父の声であった。
一之介は目を擦り、再び歩き出した。
……そして、いくら経ったのだろうか。
すでに西日が差し、風景を赤く染めていた。
一之介は町はずれの芒野にいた。
野を横切るように一本、轍を刻んだ道がのびている。
吹きすさぶ風がざわざわと鳴った。
茫洋とした風景には誰もいない。小さな一之介だけが、見も知らぬ途のただ中でぽつりと立ちすく
している。
急に寂しさが胸一杯に広がった。もう泣くまいと決めたのに、それはどうしようもないことだった。
砂を噛む足が奈落に落ちてゆくような、肌を撫でる風がそのまま自分をどこかに連れ去ってしまうよ
うな、孤独と不安が一気に襲ってきた。
はやく父に会いたい。
洟をすすりながら胸が締め付けられる想いにたえていた。
暮れなずむ世界の、その先から、もしかしたら父があの笑顔で手を振りながらやってくるかもしれ
ない。そのことを切に願った。
……遠く見晴るかす先に二つの影を見たと思ったのは、幼い一之介の淡い想いからであったのだろ
うか。
しかし、剣戟の音が、茜空の奥にわだかまる遠雷のように風を裂いて聞こえた。
それは間違いなく、二つの影から鳴り響いていた。
一瞬、風が凪いだ。
耳に痛い、音のない世界だった。
すべてが止まってしまったようだった。夜の闇が世界の色を奪い去っていくように感じた。真っ白
か、真っ黒かのどちらかしかない静止した世界に、一之介は動くこともままならず、呼吸もできず、
感情も洗い流されて。茫々とした孤独に取り残されていた。
それは目の前で、二つの影の一つが呻きをあげて倒れたからだ。
遠目でも一之介にははっきりわかった。
見間違えるはずもない。
あの父の顔を、見間違えるはずもない。
……しかし、一層の哀しみは一之介に構ってなどはいないのだ。
男が立っていた。
手に血だらけの太刀を提げ、こちらに歩いてくる。
動けなかった。
殺される、などとは考えなかった。
むしろ自棄が身を苛んだ。いっそのこと、それならば楽になれるとも思った。
しかし、男はただ一之介の横を通り過ぎてゆくだけだった。
『仇討ちならば、いつでもかかってくるがいい』
一之介の耳元で男が囁いた。
男の通り道には、切っ先から垂れた血が点々と連なっていた。
それが水月流・瓦井元春との出会いだった。
|