庵に切られた炉端の側で元春の朱顔が揺れた。向かいの一之介に一献勧めているところだった。
「なろほどな。つまりは御宝は家出したのだな」
身も蓋もない言い様である。しかし、はずれているかと言えばそうとも限らない。
「旅愁に誘われた、とは典雅な御仁よのう、篤川殿は。そも、御宝に人格ありとは。たしかに、その
毛色はありなんとは思うとったが、よもや公に認めるとはな。お上も変わったものよなぁ」
土器をぐいとあおる。すぐに差し出すのに合わせて、一之介は瓶子から注いだ。
「しからば、ヌシに命ずるとは、これまた異な事であったな」
一之介がかしこまって目を伏せると、元春は一筆の顎髭に手をおいてしごいた。
「……まあ、さもありなん、か」
遠く懐かしむような声音が、炉端の炭の爆ぜる音と重なった。
「ヌシ、母者を覚えているか」
と、唐突に元春が言った。
「はい」
正直、一之介はその面影をあまりよく覚えていない。物心つく時分には、母はすでにこの世にいな
かった。残されたのは、まだ立てるか立てないかの幼い一之介と、いつも庭で木刀を揮っていた無骨
な父だけだった。
「かの仁は天性の器量よしであった。加えて、珠がこぼれるような艶やかなおなごであった。ヌシの
父と結ばれる前にも、言い寄る男は多かったようじゃな」
一之介はただ「はあ」とこぼすだけだった。
「いや、済まぬ。ちと無粋であったな。……しかし、かの仁は、元はといえば公家の流れを汲む者で
な。それは立派に仕えていたと聞く」
なにを言わんとしているのか、一之介にはあまりよくわからなかった。しかし、先ほどから遠くを
見るような元春の様子が気にかかっていた。
その後は、元春は世間話などをして、一之介と酒を酌み交わしていた。
しかし、土器に注ぐ酒の減りがいつもより多くはあった。
夜も更け、一之介がいとまを申し渡すと、元春は火掻き棒を繰る手をとめた。
「ヌシ、もう帰るか」
いつになく寂しそうな風情である。
「はい。酔いました」
「そうか。酔うたか」
くつくつと笑う。それはいつもの元春であった。
しかし、一之介が再度、暇をのべて背を見せると、
「ヌシ」
と言って、呼び止めた。
そして、くぐもった声で問うのである。
「父のことはもうよいのか」
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