隈浦の港は晴れ渡る。

 遠く水平線上には帆船らしき影がちらほら。港内にしてもそれは同じく、外国の帆船はもとより、
他の港から寄港したとおぼしき外輪船や小舟であふれていた。
 客船に集うもの、商船から荷を運び出すもの、あるいは巨大な鉄船を一目見ようという観客が闊
歩している。船のあげる汽笛や水音が、人々の喧噪を縁取り、ときおり海から吹き寄せる風が耳朶
をふるわせていた。
「ほんに晴れてなによりですな。まずは吉兆というところ」
 駕籠持ちを引き連れた盛親が屈託なく笑った。
 狩衣をまとっていたが、頭上のくたびれた揉烏帽子が妙な不均衡を醸し出していた。
「外洋に出ればそれも見る影もなくなる。一艘不退転などあり得ぬからな」
「なるほど。しかし瓦井殿は厳しいですな」
 貴族に対して、いくら年長といえども下級の武士が振る舞う言動ではなかったが、それを気にする
気配は盛親にはない。むしろ、日和に陶然として面差し柔らかに応じている。
 対する元春は、渋茶の羽織に腕を通して難しそうに海上の彼方を眺めている。
 その姿は、どこかしら苛立たしげに風待ちする船主のようであった。
 残る一人は、むしろ心静かに海洋の波立ちに目を落としていた。
 青絣の小袖。袖無し羽織。裁着け袴に雪踏。一本の紙縒で束ねただけの黒髪が潮風になびいている。
 元春が弟子、斎木一之介である。

 汽笛が響く。

 外洋船『栄臨丸』のものである。
 西航路をまわり、終着点・リオネラ連邦国へと一之介を乗せる船である。


 時ならず寂しさが胸を打った。
 しばらく和那とも別れなければならない。今度帰ってくるのはいつになるか。
 一年後か、十年後か、それよりあとか……。
 だからして、一之介は海を見る。
 赴く地を心描くのではなく、しばらくの見納めに和那の景色を目に焼き付けておこうと思った。



 ふと、隣で同じく海を見遣る元春が言った。
「一之介、心せよ」
 その声音はやはり厳しい。しかし、弟子を慮る情けにあふれていた。
「ヌシの道理が通じぬことが起こるやもしれぬ。その折りに、ヌシは道理を曲げるか、曲げぬのか、
それとも融和を求めるのか、ワシにはわからぬ。しかし、ヌシの信じることを貫け。信念こそは正邪
に勝る」
「はい」
「……ヌシの言い分ぞ、これは」
 そう言って元春は今日初めての笑みを浮かべるのである。
「水月流はヌシに任せた身。なにも口出しせん。ヌシの思うがまま高めよ」
 おもむろに一振りの刀を取り出す。黒に朱を散らしたような奇妙な塗りの刀であった。
「『銘・烏鷺知らず』。水月流が創始者、吉島冬柳斎先生の愛刀である。霊妙あらたかにして、剛の
者をもってしも砕くこと能わなかったという」
 刀を抜く。陽に照らされた抜き身は、棟が黒く、乱れ刃紋を境にして刃は雪のように白かった。そ
の姿には、吹き付ける潮風さえも断ち切られているのではという錯覚すらおぼえる。
「黒と白に分かたれた刀ゆえ『烏鷺知らず』。いまのヌシには似合いの刀じゃ」
 納刀して、いくらかぶっきらぼうに投げ寄越した。
 受け取った一之介が物珍しそうに眺めすがめつ見ていると、さらに元春はつけ加えて言った。
「その鞘にかかる朱色。ヌシはどう思う」
 鞘にある朱色の文様は、まるで黒い河に朱いなにかを流したように、子尻から鯉口へかけて朧にあ
らわれている。
「それは血」
 一之介は思わず落としていた視線をあげた。
「納刀において鯉口からつたい流れたものと謂われる。いくら拭っても消えず、かえって朱色を帯び
て黒の上に残った。漆黒に負けず、鮮やかにな」
 再び鞘に目を落とした一之介には、その文様に底知れぬ畏怖を感じた。
「それは水月流の血の歴史そのものよ。ワシにもヌシにも、その血脈が流れている。ヌシが『烏鷺知
らず』持ったときより、ヌシは水月流のすべてを背負い、揮うときより水月流  いや、己の修羅
をはっきりと感じるであろう。ヌシにそれが堪えられるか」

 一之介は黙っている。

 だが、かわりに『烏鷺知らず』を腰に差した。

 見つめる元春に、一之介は粛然として見返すのである。
「……承りました」  

 もはや、それ以上いうことはなかった。

 それが決意。すべてを背負い、歩む覚悟であった。

「ならばよし。これでやっと、ワシはただの翁に戻れる」
 そうして、元春は微笑んで、春日にきらめく海原を眺めた。
 一之介は万感の想いをこめて、ただ黙してその隣に寄り添っていた。