……だが、翁と孫の風景をおそらく本人たち以上に、感じ入っていたのは側にたたずむ盛親であっ
たに違いない。
 袖をたくし上げて顔を隠しているが、その奧ではおそらく落涙していたのだろう。
 洟をすする声まで聞こえてくる。
「なんと、なんと」
 と、繰り言を呟いては、なにを恥じ入っているのかまわりの者に顔を見せまいとしている。
 駕籠持ちの従者二人が顔を見合わすほどに、その挙動、不気味であった。
「……若はたくましくご成長されました、陛下」
 しょぼしょぼと袖の中で呟く。
 その姿にいたたまれなくなった駕籠持ちたちが声をかけようと盛親に近づく。
 すると、がばっと大袈裟な身振りで背筋を伸ばしたものだから、駕籠持ちたちは小動物のようにそ
そくさと退いた。
 盛親は袖口が乱れるのも構わず、顔をぐしぐしと拭うと、声は大きくなったとはいえ、やはり独り
言をいう。
「こうしてはいられません。この正五位・篤川盛親、職務を全うせず、おのこにあるまじき行為、な
んと情けないことでありましょうや。これでは、陛下に承けたまわりし命を達するどころか、私情に
明かす末世公家のごとき蛮行に堕ちてしまう。身は陛下にお仕えする臣として、『貴族の威信ここに
あり!』と示せねばなりません。なれば、身は全身全霊をこめて陛下の御心のままに、成すべきこと
を成さんがため、醜状を捨て、立たねばならないのです! そもそも、身は父上に教えられたではあ
りませんか。貴族衰えたるいまこそ、その威勢とりもどし、平らかに人々に敬われる存在とせよ。そ
して、父上はこうも言いました。主従関せず、また人に関せず、差異なく交われ。礼節を重んじ、人
に入り、もって貴き平和は訪れん、と。なのに身と来たら、ちまちまとなんと威もなく礼もないこと
か! ああ、陛下、身は恥ずかしゅうて顔も見せられません。どうか天神様のご加護を。よよよ……」

 ひとしきりのたまって、またも袖で顔を隠す。



 が、やはりそうそう悠長にしていられないとやっと決意したのか、駕籠持ちたちが隠れて煙草をふ
かしだした頃になって、顔を上げて歩き出した。満面、強張った表情である。

「斎木殿、瓦井殿。数刻で船が出航する頃合いでありましょう。斎木殿、お急ぎくだされますよう」
 一之介は頷いて歩き出す。
 それを、元春は静かに見送っていた。
 が、ここで空咳一発、盛親が一之介を呼び止めた。
「斎木殿、身も陛下から命を承りましたゆえ、ここにてお伝え御免」
「命」
「左様。そなたの旅程を安寧に取りはからえとのお申し付けであります」
 そうして、畳まれた一枚の書状を取り出した。
「『栄臨丸』はリオネラ連邦国には『おぅでえす』なる商い街に終着すると聞き及びまする。かの地
には、サンマルク商館にてかねてより命を授けた先任の者がおりますゆえ、この書状をお渡しくださ
いませ。かく取りはからいますれば、その後の指針をその者から聞くことができますでしょう」
「承知しました」
「なお、その者、多少お気に召さざることおありかもしれぬが、気をもむことなきよう」
 福笑いで書状を手渡す盛親を見て、一之介は少し気にはなったが、格別口に出すまでもないと思い、
黙っていた。
 が、あとになって、一之介は多少なりとも聞いておけば良かったと後悔することになるのだが、も
ちろんこのときの彼には知るよしもない。


 再びの船の汽笛。出航の合図である。


 甲板から顔を出す一之介の視線の先には、袖口から小さく手を振る盛親と、仁王立ちでこちらを見
上げる元春の姿があった。
 元春はただ視線を投げかけている。
 一之介もまた、それを敢えて受け止める。
 叫びあげることもない。
 そして、これでよい、と一之介は思った。


 船が港を離れ、いよいよ二人の姿が小さくなると、一之介は瞑目した。
 そして、そのまま、振り返ることはなかった。

「あの者、最後には目もくれず去りよった」
 港にたたずむ元春がひとり呟いた。
「なんとも寂しいことですな」
「だが、それでよい」
 新しい出会いが一之介の行く先で待っているだろう。そして、それは彼の心技を育て上げ、境地を
切り開く。剣の道とは、そうした新しい出会いの積み重ねと、混沌の中から拾い上げるもの。情けを
捨て、情けを浴び、玉石混淆の錬磨の果てに見も知らぬ「なにか」が待ち受ける。

 だから、いまは心を残すな。

 ただ歩め。

 消えゆく船影を眺めながら、元春もまた瞑目する。
 万感の想いをこめて。

「よよよ。よよよ。およよよよ……」
 盛親が涙を流す。ずぶ濡れの袖が潮風になびいていた。
「身は  身は決めましたぞ、元春殿!」
「なにをじゃ」

「身を弟子にしてたも」

「……考えておく」
 汽笛の音ははるか、壮途の晴れやかなるを告げていた。