元春はそこにいた。庭の椿に目を落としている。

 腰には小太刀。

 待ち受けていたに相違ない。

「ヌシ、兵法の修羅をどう理解するか」
 歩み寄る一之介に、老者は振り向くことなく言った。
「太刀を揮うこと、すなわち修羅です」
 一之介は静かに答えた。
「ならば、女子供が夜盗を手近の太刀にて刺し殺すことは、修羅であるか」
「それは修羅ではありません。ただ、一身の安らぎを守るため」
「左様か……」

 小太刀を抜く。


 振り返ったその面には、すでに冷徹が宿っていた。


「一之介。ヌシは兵法の修羅か、それとも女子供の揮う太刀か」



 跳ぶ。



 その様は風の吹き寄せるごとし。迅速は土を散らせ、砂塵となす。



 一之介も抜く。



 小太刀が白光の尾を引いて、甲高い音を響かせた。



 ……切っ先は切羽を弾いた。鞘から飛び出した一之介の刀が防いだのである。


 間をついて一之介が退き跳ぶ。と、同時にすばやく抜刀した。


 すんでのところで制せられた元春もまた、体を開き、小太刀をだらりと下げて構える。




 両者は五間ほど離れて対峙した。


「一度抜刀した者はその門をくぐり、一度斬った者はその火を浴び、一度殺した者はその血を体に通
ず。我らが道とはそうしたもの。己の意志の如何など、果てには息の根を止めることしか待っておら
ぬ。それ、すなわち修羅道。ヌシはもはや戻れぬ道を歩んだ。ワシとともに歩んだ。……ならば、ワ
シを斬ることもまた理」

 常ならぬ厳然とした声音とともに、その瞳が淡く光った。

 想いなど、天命の中では塵もひとしい。
 そして、心の迷いは「瞬の決意」を鈍らせる。
 情けは無用。
 流水のように絶えずして、瀑布のように轟然と。
 水月流の体現がそこにはある。




 ……殺せるならば殺す。

 師ならば、軽々とやってのける。



 それが水月流だからではなく、あのときの師の瞳と、いまの師の瞳は同じだからだ。




『いつでもかかってくるがいい』 




 刀を手にしたときの信念、気迫。

 一身に降りかかる火の粉を「断つ」という決意。




 一之介は心の臟を鷲づかみにされる想いがした。







 だが、退くことはない。


 元春の心、わからぬものでもない。
 一之介もまた、そのもとで流派のすべてを身につけた。
 信念も気迫も決意も、知らぬわけではない。
 殺すことも厭わぬ。
 それが親であろうと、仏であろうと。
 その心がないといえば嘘になる。
 松月門前での一件。
 斬り伏せた者どもがなによりの証。
 違えることではない。





 ……だが。





 だが、と思う。





「拙は殺しませぬ」

 正中に構えた。
 明白な闘う意志。
 だが、その心中には異なる想いがあった。
 想いをこめてもう一度、今度は吼えるように言った。

「拙は殺しませぬ。師が仇であろうと、壁であろうと」

「ヌシ、血迷うたか。ワシを斃さざるを得ぬが定めなるぞ。水月流がそう説き、我らが道がそう説く
のだ」
「そうであろうと、拙は殺しませぬ」
「愚か者が」

 小太刀を中段に突き出すようにして、元春が叫ぶ。

「ならば、一之介、ヌシはいままで誰も斬っておらぬと申すか! 殺しておらぬと申すか! 身に修
羅を宿さぬと、誠に言い切れるか!」

 いまにも急襲せんばかりに全身から悠揚ならざる気配が立ちのぼる。
 そして、漲りは一点、小太刀の先へと注がれる。
 もはや、打って出るなどという世迷いごとが許されぬような、鬼神の態であった。


 それは、一之介に対する最後の問いである。全霊を傾注した壁である。


 それに一之介は応えなければならない。
 師と同じく、全霊を傾注した答えによって。



 神妙としている。



 怖じ気などという感情はとうの昔に消え去っていた。


「……拙は斬りました。数多の人々を。弁明する気はさらさらありませぬ。拙の心には修羅がありま
す。それは覆しきれぬものです。そして、あえて覆そうなどとも思いませぬ。……しかし、師は斬り
ませぬ。仇であろうと越えるべき壁であろうと」

 自然と握りに力がこもった。

「拙が斬るは、己の迷いです。それは、恨み憎しみの先にあるものを得るためです。拙は……拙は、
親を斬られ、今度は己の手で親を斬るようなまねは嫌なのです!」

 元春の掲げた小太刀がわずかに揺れた。

 だが、冷然とした声音は変わらなかった。

「そう申すか。ならば、ヌシは修羅をどうするのか。いつか身を食い破られるまで、そのような戯れ
事を弄するというのか」
「拙はそうありたいと思います」
「……愚かな。ヌシは刀を捨てられぬ。それすなわち修羅を養うことぞ。ヌシにそれが止められるの
か。いつかの恐怖に堪えられるのか」
「拙にはわかりませぬ」

 一之介の太刀筋が下がった。
 しかし、すぐに隙のない構えを取り戻す。

「しかし、拙には言えます。先にあるものは必ずや修羅を乗り越えられる。太刀を揮うは義のためと
言える日が来ると信じます」
「この世に義など存在せぬ」
「いいえ、あります。ただ、我らに見えないだけです。昼の星は見えませぬ。しかし、そこにありま
す。拙はその星を掴みたいのです」
「笑わせてくれるわ。ならば、水月の理を、ヌシは蹴ると申すか」
「蹴りませぬ。しかし、師が仰有るようなこと、拙には受け入れられませぬ。拙は信じたいのです。
師が信じたように、拙が信じる水月を信じたいのです!」










 おもむろに小太刀が撥ねた。




 刃を納めた手には、幻のように漲りが消え去っていた。




 そこにはいつもの飄然とした老者がいた。




「……このような頑固者、ワシはついぞ知らぬ」
 そして、おもむろに地に屈み、落ちた椿を手に取った。
「信じる……とは、大言を吐くわ。見も知らぬことを、よくもべらべらと」

 細い腕が紅色の椿を小さな流れに浮かべる。
 月夜に照らされた水面に、花一輪がさらさらと流れていった。



「ヌシ、水月をどうする」
 立ち上がった元春の面には、すでに炉端の赤みが差していた。
「拙には、わかりませぬ」
「そうか。わからぬか」
 小袖に両腕を通し、瞑目する。


「ならば、どこへなりと行くがいい」

 そうして、元春は立ち去るのである。

「ヌシが己の大器を手に入れるまで、ワシはいつまでも待つ」

 軒の暗がりに没する元春の姿を、一之介は黙って見つめていた。
 そして、独り、頭を垂れるのであった。
 心には、師の「いつまでも」の言葉が静かに響いていた。