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 師は旅立つ前に我を斃せと言う。
 おそらく長い旅になるだろう。
 齢長けた師に再びまみえることはないかもしれない。
 そうなれば、もはや仇を討つことはできない。





   雨だれが土を喰み、暮雨が蕭条と流れる。





 端座したまま、沈と心をうつ。

 傍らには太刀。




 措く手は、まだない。





   薄暮が決意を迫る。





 斬る、となれば親をも殺す、仏をも誅する。
 それが武。
 不自由なものだ。
 しかし、闘いでは躊躇いが死となる。
 水月流の極意は、ために理である。

 ならば、水月流の『瞬の決意』がまだ足りぬのかもしれない。



 しかし、否と応える己もいる。

 太刀執るは、『やらねばならぬ』ことを成すためだ。
 一度、太刀を手放した心情に殺意はない。
 あえて題目をつける必定がどこにあるのか。




 復讐とは、独りよがりの怨嗟である。
 死した者に口はない。
 それつまり、黄泉で恨みを吐いたか、情けを吐いたか知ることはできぬということ。
 生前に親しんだ者を奪われた哀しみが、生きる者に怨嗟を呼ぶだけである。




 そして、いまの一之介にはわかる。あのとき、父は立ち合いのもとに死した。抜刀した。
 抜刀したからには、命を賭したのである。
 その心情に一分も「死ぬわけがない」とは思ったはずがない。承知の上だったはずだ。

 ならば、なぜ恨む。
 仇を討つ。




 ……それは、哀しまずにはいられない、恨まずにはいられない、遺されたものの性ゆえだ。








 兵法の理は太刀を執れといい、執るなという。

 心は斬れといい、斬るなという。

 ゆえに一之介は端座している。瞑目している。





   雨が降りしきる。





 それは一之介の千々の心象であった。










 そして。





 宵闇の中を彷徨う若人は  太刀を執った。