輪っかを持って、一段高くなった台の手前で待ってると、向こうから後ろ手に縛られた両手を刑務 官にがっちり掴まれた囚人がやってきた。正直、はじめ見たとき、配管工か煙突掃除かと思ったよ。 それほど、その囚人は体中、真っ黒に薄汚れて、着てる服はところどころボロボロだし、長ったらし い髪の毛はバサバサで顔もロクに見えやしない。たとえ、顔がはっきり見えたとしてもヘドロをぶち まけたみたいに汚れてたし、その時にはしっかりと見ている暇はなかったがね。 ただ、やけに体つきが小さくて、一瞬頭をかすめただけだけどよ、こいつ、男じゃねえな、って思 った。……ま、そりゃ、棒っ切れみたいにガリガリに痩せて、骨もすり減ったような奴らは、目が腐 るほど見たさ。 だけど、なんだろうね、その日のあたしはおかしかったんだ。 ……ああ、すまんね。 いや……正直云うと、よくわからない。……わからなくなるんだ。 さっき話した真っ白な処刑台も、その時も……。滅多にそうはならない、はずなんだよ。 囚人たちがあたしの輪っかで死んでいって、屍体が風で揺れてりゃ……それがあたしの満足だ。 それだけを……畜生にも劣るような奴らの下でこき使われて、地獄に片足突っ込んでるような暮 らしで、蛇口からでる滴にも満たないような、このあたしの命が、それだけで本当に一瞬だけ救わ れるような気持ちになったんだ。 何も考えなくていい。 銃口を向けられたって、目の前で血ィどくどく流して隣の奴が殺されても、ただ、縄を結ってれ ばなんもかんも忘れられた。 どうやって綺麗に殺れるか、どうやったら楽しいおどりを踊ってくれるか、それだけだ。 段取りも方法も、みんなわかってる。 外で何が起こっていても、あたしには関係ない。 全部をやり遂げて、気づいてみたら目の前で屍体が踊ってれば。 あたしにはそれこそがすべてで、それこそが生きがいだったんだ。 ……だけど。 ……だけどな。 それから、考えてみるんだよ。 こうして、部屋の隅っこで日がな一日、天井を見たり、壁を見たり、床を見たり、何の変わりばえ もしない、箱の中身を眺めているとさ。 あの頃と変わらない、ボロ屋に押し込まれて干からびた屍体みたいな命は、でも何かが、自殺しよ うとして崖から飛び降りてから『やめればよかった』って思ったぐらい、遅すぎたし、決定的に壊れ ちまったんだ。 ……女に輪っかをかけているときに、垂れ下がった髪の間から女の顔が見えた。 直にこの手で触れてるんだ。もう、よく見えない、見間違えないなんて自分をだますこともできな かった。 驚きはしなかったよ。 むしろ、安堵したんだと思う。 禁欲的に暮らしてきたツケかね、感動とか、そんなものはどっかに置き忘れていたのかもしれない。 だけど、相手は違った。あたしの顔はたぶんシワだらけで肌も色あせて、昔とはだいぶ変わってた はずだ。すぐにあたしとわかる奴は『保健所』であたしと肩を並べてる奴か、虫けら扱いする奴しか いないはずだ。 それでも、女はあたしの顔を見るなり、それまでの死人の顔が急に騒ぎ出した。すぼめられた目が パッと開かれて、口からは言葉にもならない喘ぎ声だか叫び声だかが飛び出したんだ。 身をよじって暴れはじめる女を目の前にして、あたしは思わずたじろいだね。あたしを覚えている ことに、というよりも急に怖くなったんだ。 だけど、それも一瞬だった。 側にいた刑務官がすぐに取り押さえて、動けないように肩と両手を掴んだ。女だし、痩せきってる んだ、ひとたまりもなかった。だけど、女はそれでも身じろぎして、あたしを見据えたまま、あー、 だか、うー、だかうめいている。そうしながら、いつのまにか死んだ魚の目みてえだった女の目が、 屠られる直前の牛みたいに光って、黒い体の真ん中で輝いていた。 その直後だった。 背後で号令が轟いた。 焦ったんだ。 並んだ囚人どもと同時に、女の足下の台が蹴り飛ばされた。 縄がしまる窮屈な音とともに、女は宙に躍り出た。首だけでぶら下がりながら、それでも必死に逃 れようとして、あたしの方に向かおうとして暴れる。そして、もう出なくなった声のかわりに、両目 だけが絶えることなくじっと見つめているんだ。まるで……そう……いま目の前にある光景を、目に 焼き付けようとしているみたいに。 女の体が小さな震えすらやめて、真っ黒な顔からでもわかるほど血の気がひいて、あんなに光って いた目がついに濁っていって、まわりの吊り下げられた屍体と見分けがつかなくなるまで、あたしは 黙ってその場に立ちすくんでいた。 あんたは、そのとき助ければよかった、と云うかもしれないな。 自分の良心に従って、恐れずにと。 だけど、いまさら、善人の説くようなご託が、あたしのおつむに浮かんでくるはずはなかったんだよ。 ……それから、毎日毎日、処刑台を通り過ぎる囚人のために、縄を縛ってるとよく思ったもんだよ。 この輪の中に首を通せば、あたしも……とね。 ……でもね、そういうときに、きまって輪っかの向こうに顔が見えるんだ。 たくさんの顔が。 あたしはよくわかってた。 もう、ここはいっぱいなんだ。 この輪は自分のために用意されてるものじゃない。 わかりすぎるほどわかっていた。 そして、同じように気づくんだ。 ……あたしは生きることも、死ぬことも、結局はできないんだってね……」 |