世界が二人だけならそれで済んだんでしょうなあ。でもね、あたしら夫婦は当然のことながら相手
方の家族から責を負わされましたよ。その上、あたしの勤め口が相手方の会社だったからタチが悪い。
あたしは家財道具を一切合切売り払ってやっと足りるような慰謝料を積んで、即刻会社をクビになり
ました。それだけなら、まあ雨露を忍んででも新しい勤め口が見つかれば、大変だけど何とか暮らせ
たかもしれませんや。
 雨露だけはね。
 でもね、評判っていうのは、わかるでしょうが、下げるのは簡単だが、一度下がったのを上げるって
のは、こりゃ、至難の業ですぜ。誰も彼も、あたしたちのことを悪く言わない者はいなかったね。だ
から、新しい勤め口を見つけようにも行く先々で突っぱねられ、日銭すら稼ぐこともままならず、あ
たしらはいよいよ追いつめられていきました。

 母ちゃんがあっけなく逝っちまったのは、雪の吹き寄せる冬の日でしたね。残った二人の子どもを
人身売買同然に養子に出して、その見返りにもらった金も底をつき、寄る辺もなく橋の下であたしら
夫婦は寒さをしのいでいました。着てる服はボロボロになって、身一つでただ肌を寄せ合って暖をと
るしかなくてね、何千回と絞られた雑巾みてえに、あたしは心底くたくたでもう一歩も歩けやしなか
った。だからかな、隣の母ちゃんが突然吹雪いてるのに混じってぼそぼそ言いだしても、何だかわか
りませんでした。でも、母ちゃんが立ち上がるなり『待って』と言ったきり、雪ん中に出てったのは
今でも覚えてます。その時、止めてればまだ良かったのか、と思うときもありましたが、そん時は疲
れ切っていてどうしようもなく眠くて、それにもう誰かに構っていられるほど気力も失せていたんだ
ね、真っ白の中に消えてゆく母ちゃんがぼやけていったのが最後でした。
 母ちゃんが何を思って出て行ったのかはわかりません。何か当てがあったのか、それともあの娘み
たいにおかしくなっちまったのか、どうなんですかねえ。いや、だけども、おかしくなったにしても
母ちゃんにはまだ希望があったのかもしれませんね。じゃなきゃ、あんな風に出て行かずに、娘みた
いに自殺しようとすればよかったんだ。……莫迦なことですよ。眠っちまったあたしが死なずに助か
って、母ちゃんがそれっきり帰ってこなかったなんてね。本当に、莫迦な話ですよ」