部屋にひとり残されたネズミは愕然として立ちすくしていました。
「アヒルくん。キミ、ついにそれを……」
アヒルのだみ声は、実はのどに奧にあった水のためでした。彼の特徴的な声はそれがあってこその
人心掌握術なのでしたが、反面、河童の皿と似て、水がなくなってしまうとアヒルは長く生きられな
いのでした。水目潰しはアヒルの全身全霊をこめた最後の奥の手だったのです。
ネズミは扉の向こうでつづく闘いの音を祈りながら聞いていました。アヒルならば必ずやってくれ
る。そう信じて、彼の命の代償が報われるように。
しかし、それも悲惨な結果となってしまうのでした。
「うぎゃああああああ! ウォルトぉ! 」
アヒルの、それこそ出ない声を無理矢理引き出されような断末魔の叫びがこだましました。
直後「ボン!」という破裂音が聞こえました。
ネズミが凍り付くのと同じくして、隣の部屋の音は絶えました。
かわりに赤い顔をさらに赤く染め、蛇の歩みでゆっくり扉を開いて現れたのはトマト大王でした。
「残るは貴様ただ一人。覚悟は、できておろうな?」
大王の顔は修羅と見まがうばかりにギラギラと太陽のような戦慄を放っています。ネズミはその姿
に圧倒され、後ずさりしました。
しかし、それでは何のために仲間たちが倒されていったのかわかりません。
彼は唇を噛みしめて、力を振り絞り言い放ちました。
「王国は絶対に渡さない! 誰にも、絶対に渡さないよ!」
しかし、その抵抗もやはり泥沼に足を沈めるのと同じく、相手を増長させるばかりでした。大王は
不敵に笑うと云いました。
「大局を忘れ、悪に身をやつす者は、ことごとく消えるが運命。何と哀しきことよのう、え? ネズミ
の長よ。貴様もまた、消え去らねばならぬ。ならば潔く、闘いの中で果てよ。余という運命の前でな」
「……く、云ったな」
ネズミの顔にわずかな怒りが浮かびます。
「だったら……キミも同じだ! キミも消え去ってしまえばいいんだ! ボクの、真の恐ろしさを思
い知らせてやる!」
ネズミが荒い息を吐きだした直後でした。
彼の体はいきなり蠢動をはじめたのです。それは段々と勢いを増し、胸や腰、四肢の隅々までを力
強く押し上げていきました。そしてついには、ネズミは筋骨隆々のそれまでの彼からは想像できない
姿に変わっていきました。服はところどころ破れ、サスペンダーは極限までのび、靴は地面にめり込
んでいきます。瞳は漆黒の色を帯びて獲物をさがすような獰猛なものに変わっていました。
「アハッ! ボクの真の姿を見た者は、今まで誰一人して生きて帰したことはない!」
たしかにそれは真実でした。今まで、彼の中の人を見た者はすべてこの王国から一歩として逃げお
おせたことはなく、彼の餌食となっていたのでした。
しかし対する大王は泰然自若としてまったく動じる気配がありません。
「ならば、余こそが最初の者となろうぞ」
不敵に笑ったのでした。
これにネズミは顔中に血管を浮かび上がらせて、悪魔のように口をカッさばきました。
「イキテカエスカ。ココデシネ!」
言語能力がすべて怒りに吸収されたのか、ネズミは機械のようにしゃべり出すなり、飛びかかって
きました。
「アヒルタチノカタキ!」
空中高く、両手を手刀の形に突き出すようにしてネズミは大王めがけて向かっていきます。
しかし、それでも大王はいまだ動じることなく笑うのでした。
「王鼠猟牙拳か。フン、よかろう。貴様の技、とくと見せてもらおう」
ネズミの指先が大王の顔へと飛んでいきます。
甲高い気合の声につづいて、両手が乱れ打ちの要領で次々と突きささっていきました。
それはまるで、有形無形のネズミの群れが食べものへと我先へと押し寄せて、牙を立てて貪ってい
るようでした。
攻撃が終わったときには、血のようなドロドロした液汁をあたり一面に滴らせて、見るも無惨に突
き潰され、割れて垂れ下がった顔は胴体からこぼれ落ちそうになっていました。
「ドウダイ!」
ネズミはこの状況に、さすがの大王も倒れたかと思いました。
しかし彼の寒気も風前の灯火でした。
なぜならば、
「……ククククク、この程度か。貴様の力は」
と、頭の残骸に切れ端のようにひっついていた口が開いてしゃべり出したのです。
すべてを怒りに投じたネズミの感情にありえない波が立ちはじめました。底知れない地獄をのぞき
込むような恐怖でした。
「ナ、ゼ……」
「貴様が正体を明かしたのならば、余もまたその正体を明かせねばなるまいな」
その時、どこからか示し合わせたようにナス大臣が飛び出てきました。
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